北の国建国から1000年以上。 かつての王たちの生贄の儀式の記録は膨大でした。 粘土板の時代、木板の時代、麻でできた紙の時代、時折 羊皮紙に記されたものもあります。 なぜ神が、その生贄を受け入れたのか、受け入れなかったのかについての記載はないのですが、人間側の事情は詳細に記録に残っていました。 昔は、嫌いな人間や敵対者を生贄に選んだ王も多数いたようです。 自分の敵の命を神に消してもらうことを企むような王ですから、生贄は、王以上の人格者であることが多かったことでしょう。 けれど、そんな時、神は、十中八九 生贄を気に入らず、代わりに 王の命を奪っていました。 そういうことが幾度か繰り返されるうちに、生贄の儀式を使って 自分の敵や邪魔者の排斥を企む王はいなくなったようでした。 「神が気まぐれなのではなく、神は 生贄の儀式を通して、国王の価値観や適性を審査し、不適切な国王を排除しているような気がするな」 「そうかもなー。生贄の儀式の記録は、儀式で生き延びた方が残してるんだから、死んだ方を悪く書いてるって可能性もあるけど、これ、普通に 国王適性試験、人事評価面談だよな」 「我が国の王は、王位に就いている限り死なないからな。不適切な王は、神が除くしかない。王が 自分の意思で退位や譲位ができればいいんだが」 「……」 紫龍の言う通り、自由に王位を誰かに譲ることができたなら、どんなにいいか。 紫龍の その言葉を聞いて、氷河は歯噛みをしました。 「退位ができないなら――俺が瞬を連れて、この国から出奔するというのはどうだ。そうしたら、どうなる?」 「それは……神に生贄を捧げる儀式を催す権利を持つ王がいないわけだから、生贄の儀式は執り行なえない。当然、奇跡の石を貰うことができず、外貨による食料の確保もできなくなる。そうなれば、飢え死にする民が多く出るだろう。王が死んでいないのだから 王位継承も成らず、やがては 国そのものが亡びる……といったところか」 多くの民が飢えて死に、国も亡びる。 そんな大変なことを、軽く言ってくれるものだと、紫龍の推測に 氷河は一層きつく ぎりぎりと歯噛みをすることになりました。 実際には 紫龍は、氷河より よほど深刻に、国の行く末と 民の未来を案じ憂えていたのですけれどね。 氷河も それはわかっていたのですけど、今の氷河には とにかく、怒りをぶつける誰か(もしくは何か)が必要だったのです。 「歴代の王たちは どうして生贄を選ぶことができたんだ……! 自分の敵や邪魔者を生贄に選んで自滅していった阿呆共はともかく、自分が最も素晴らしいと思う人を神に捧げるなんて、俺には絶対にできんっ」 「自分の幸福を諦め、国と国の民に献身する覚悟のある者だけが王でいられる――ということだろうな」 「そんな覚悟は、俺にはないっ!」 「断言するな、阿呆」 一瞬の迷いもなく 力いっぱい、王としての不覚悟を断言する氷河に 呆れて、星矢が肩をすくめます。 一国の王の身で、下っ端家臣に阿呆呼ばわりされても 馬鹿呼ばわりされても、氷河の心の内には どんな 迷いも覚悟も生まれてはきませんでした。 ない袖は振れないものです。 「いくらでも断言するぞ! 王都の学校で 初めて瞬に会った時、『僕たちの国を豊かで幸福な国にしようね』と、瞬が超可愛く にっこり笑って言ったから、俺は その気になっただけなんだ! 瞬の前で、いいカッコをしてみせたかったから、王として頑張ろうと思っただけ!」 「氷河。頼むから、断言しないでくれ」 仮にも一国の王が、これほど正直者でいいのでしょうか。 もはや すくめていることさえ難しくなった星矢の両肩は、まるで肩の骨が融けでもしたかのように、がっくりと落ちてしまっていました。 ともすれば おかしな方向に脱線しがちな氷河の思考の向きと態度を矯正するのは、瞬の役目です。 瞬は、氷河の手に 自分の手を重ね、氷河の瞳を見詰めて、氷河より よほど覚悟の定まった声と眼差しで、氷河に訴えました。 「氷河。氷河は、僕の夢と望みを知ってるよね。僕の夢は、世界の平和。僕の望みは、僕たちの国を飢える者のいない豊かな国にすること。僕の夢、僕の望みを、僕の代わりに氷河が叶えてちょうだい」 「いやだっ。俺は、おまえと一緒に この国から逃げるぞ! もともと俺は、王になんかなりたくなかったんだ!」 「氷河……お願いだから……!」 「駄目駄目駄目、絶対に駄目だ! おまえは いつもずるいんだ! おまえに、そんな目で『お願い』なんて言われたら、俺が言うことをきくしかないと思って、だから、いつも、そんな綺麗な目で『お願い』なんて言う。俺がいつまでも おまえの言うことをきく甘い男でいると思ったら大間違いだぞ!」 氷河が これまでずっと、そして いつも、瞬の“お願い”をきいていたのは、瞬の“お願い”をきいてやると たくさんの人が喜んで、たくさんの人が喜ぶと 瞬が喜んで、瞬が喜ぶと氷河も嬉しくなるからでした。 今、瞬の“お願い”をきいて、瞬の代わりに王である氷河が 貧しい北の国を豊かな国にしても、それを喜んでくれる瞬がいないのでは、氷河は嬉しい気持ちになれません。 そんな“お願い”なんか、きけるわけがありません。 けれど、瞬は、綺麗な目で、なおも“お願い”を言い募るのです。 「氷河、大好き。氷河、お願いだから、僕をがっかりさせないで。氷河を嫌いにさせないで」 氷河は、本当に瞬はずるいと思いました。卑怯だと思いました。 瞬に そんなふうに言われたら、氷河は瞬の“お願い”をきかないわけにはいかなくなってしまいます。 自分の恋のために国の民を見捨てたら、瞬は本当に自分を嫌いになってしまうことが、氷河にはわかっていました。 より正確に言うなら、“嫌いになる”のではなく、“愛せなくなる”。 瞬に愛してもらえなくなったら、それもまた、氷河には地獄です。 進むも地獄、退くも地獄。 まさに、“前門の虎、後門の狼”状態です。 氷河は、虎も狼も、あまり好きではありませんでした。 氷河は 結局、瞬を連れて よその国に逃げることはできませんでした。 でも、それは、氷河が北の国の王としての覚悟を決めたからではありません。 瞬が『逃げない』と言い張るからです。 瞬が一緒についてきてくれないのでは、氷河が一人だけ逃げても、何にもなりませんから。 瞬は生贄になる覚悟はできていましたが、懸念事項は てんこ盛り。 氷河は、そもそも国の王としての覚悟ができていませんでした。 そんな状態で、確たる解決策も思いつけないまま、運命の日は、じつにあっさり 北の国に やってきてしまったのです。 |