氷河の店の閉店時刻は、“深夜0時以降、最後の客が退店した時”となっている。
蘭子が氷河の店に“遊びに来た”のは、それから数日が過ぎた日の閉店間際のことだった――氷河が店を閉じようとしていた時に、蘭子が来た。
蘭子の場合、彼女が『遊びに来た』と言えば、その来訪の目的は言葉通りに“遊び”以外の何物でもなく、彼女は 店のオーナーらしいことは、ほとんどしない。
氷河としては、店を自分のしたいように運営していけるので、それは どちらかといえば好都合である。
とはいえ、被雇用者の立場上、たとえ閉店を遅らせても 彼女の遊び相手を務めないわけにはいかないので、蘭子の緩い管理は、氷河にとっては 一長一短、どっちもどっちというところだった。

瞬が夜勤で ナターシャを預かってもらっていたので、特に今日は彼女に逆らえない。
氷河は、今夜は早めに店を閉めて ナターシャを受け取りに行こうと考えていたのに、蘭子は おねむのナターシャを おぶって、 わざわざ店まで運んできてくれたのだ。なおさら、逆らえない。
蘭子の今夜の遊び道具は、彼女が雇っているバーテンダーの家庭内事情のようだった。

「アタシ、3日前、瞬ちゃんがFSホテルのティーラウンジで、綺麗なご婦人と 妙に深刻そうな顔で話し合ってるのを見たのよ」
3日前というと、瞬は 脳だか心臓だかの 血管だか筋肉だかに関する研究会があって、病院には行かず、都心に出ていた。
FSホテルは、研究会開催会場のT大ホールからは徒歩圏内。
その日 FSホテルに瞬がいたというのは、ありそうな話だった。

「綺麗なご婦人?」
「ええ。30代半ばくらいの、まあまあ美人。氷河ちゃんの半分くらい綺麗。見たとこ、バリバリのキャリアウーマン。女医には見えなかったわね。医療関係者じゃない。濃紺の きっちりしたスーツに、シンプルなパールのペンダントしてた。で、長い髪を一つにまとめてるんだけど、それが 一筋だけ、さりげなく乱してあるのよ。あれって、自分があんまり デキる女だと思われないために、わざと崩してるのね。まじで デキる女なんだと思うわ。同性には妬まれないけど、男には妬まれるくらい」
「……」
蘭子の人間観察の視点は、氷河とは微妙に違う。
一分の隙もなく まとめられた髪に 意図して加えられた乱れと、自然にできた乱れの違いなど、氷河には 聖闘士の視力をもってしても見抜けないものだった。

自分にできないことを たやすくしてのける人間に、氷河は素直に感心することのできる男である。
なので、氷河は、蘭子の眼力に、今日も素直に感心した。
その眼力で入手した情報が どういう意味を持つものなのかは わからなかったのだが、とりあえず。
なにしろ 蘭子は、氷河の雇用主で、ナターシャを預かってもらうこともある相手。
現に今、ナターシャは蘭子の背で 平和そうな寝顔で むにゃむにゃ言っている。
『それがどうした』と、邪険に撥ねつけるわけにはいかなかった。

「保険の勧誘か何かだったのでは?」
「いやあね。瞬ちゃんみたいに 給与所得控除の上限を超えてる お医者様が、保険のおばちゃん経由で保険に入ったりするわけないでしょ。担当のファイナンシャル・プランナーがいるわよ」
その前に、アテナの聖闘士が生命保険に入ることは可能なのか。
従事している仕事を隠して保険に入ろうとすれば、それは告知義務違反になるのではないか。
自分自身は生命保険に入ることなど考えたこともないのに、蘭子の話を聞きながら、氷河は そんなことを考えていた。
何となれば、氷河は 蘭子の期待しているリアクションが わからなかったのである。
できれば 蘭子の期待には沿いたいと思ってはいたのだが。

「瞬が女性と一緒にいてはいけないということはないし、仕事柄、瞬は老若男女を問わず、色々な人間から相談を受けることも多いだろう」
「あら。冷静。じゃあ、もう一つ。アタシ、今日の夕方――ううん、もう 昨日の夕方ね。ナターシャちゃんを預かる前、羽振りがよさそうなイケメンの彼氏と一緒にいる瞬ちゃんを見たわ。アラフォー。くたびれたところが全然なくて、おじちゃんヘアスタイルでもなかったから、多分独身。結婚してても、子供はいないでしょうね。RCホテルのロビーラウンジ。こっちは、瞬ちゃん、始終 にこにこしていたわ」

ナターシャが 目を覚ましかけている。
とりあえず 氷河は、やっと蘭子の期待しているリアクションが わかった。
瞬の 女性との個人的密会の情報と 男性との個人的密会の情報を、たまたま手に入れた蘭子は、そのどちらか、もしくは両方で 氷河が取り乱すことを期待していたのだ。
蘭子の望むリアクションは、氷河の非“冷静”。その様を見て、彼女が笑うこと。
そんな期待に沿ってたまるかと思った途端に、氷河のこめかみは ぴくりと引きつった。

「ふうん……少し、気になるのね」
アテナの聖闘士ほどではないが、蘭子の動体視力は並み以上。
彼女は、目ざとく、氷河の こめかみの引きつりを見てとった。
「……」
氷河がむっとしたのは、蘭子の期待に沿ってしまった自分に腹が立ったせいである。
決して、瞬が 昨日 どこぞの男と にこにこ笑って歓談していたという蘭子の目撃情報が 気に障ったからではなかった。
氷河自身は、そう考えていた――そのつもりだった。
幼い頃から、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士、その絆は何よりも強固。
その絆と信頼は、瞬が どこぞの男と にこにこ笑って歓談していたくらいのことで揺らぐようなものではないのだ。
と、氷河は思っていた。
そう信じてもいた。もちろん、信じていた。
――が。

今日(ほぼ昨日)、 瞬は、今日は準夜勤だと言って、午後3時をまわった頃に家を出ていった。
瞬の言葉を信じるなら、瞬が向かった先は光が丘病院のはず。
瞬が 夕方、赤坂のRCホテルにいるわけがないのだ。
ナターシャのパパとマーマが二人共 仕事だから、今夜 氷河は ナターシャを蘭子に預けて、店に出たのである。
瞬が病院ではなくRCホテルにいたということは、瞬がナターシャの世話を他人に委ねても、その男と歓談しなければならなかったということ――瞬にとっては、その男との歓談がナターシャの保護保全より重要なことだった――ということになる。

仕事だと嘘をつき、ナターシャの世話を他人に任せてでも会いたい人物。
蘭子の話から察するに、その男は 聖域関係者ではなく、ごく普通の一般人である。
となれば、瞬にとって ナターシャの世話より重要な要件は、世界の平和に関することではないだろう。
そして、ナターシャの世話より どこぞの男との歓談の方が大事ということは、瞬が、氷河より どこぞの男の方を大事に思っているということだった(氷河には)。
これは、捨て置けない事態である。
蘭子の手前、冷静な振りをしようと思うほどに、氷河の顔の引きつりは激しくなっていった。


蘭子が氷河に期待するリアクションは、“氷河が冷静でなくなること。ただし、氷河と瞬の間に修復不可能な亀裂が生じない程度に”だったのだろう。
自分が雇っているバーテンダーが慌てる様子を からかうことができれば、それで満足。それ以上の騒動を、蘭子は望んでいないのだ。
子供にも見てとれるほど はっきりと、氷河の こめかみや唇の端が引きつる様を見て、蘭子は 自分の声から 速やかに 挑発の響きを消し去った。

「それにしても、面白いわね。シュラちゃんといる時もそうなんだけど、体格のいい男性といると、瞬ちゃんって、清楚可憐な少女に見えるのよ。バリバリキャリアウーマンといる時は、育ちのいい お坊ちゃん紳士に見えたわ。人の見え方、見方って、ほんと不思議よね。ナターシャちゃんといる時の瞬ちゃんは、若くて綺麗なマーマなのに、氷河ちゃんと一緒の時は――」
蘭子が そんな話を始めたのは、冷静でなくなった氷河が 非冷静の加速度を増して 暴走(その結果、衝突・爆発)する事態を回避するためだったろう。
蘭子の期待通りに冷静でなくなり、蘭子の 目論見通りに暴走を取りやめるのは 極めて不本意だったのだが、蘭子が持ち出した話題は、その答えが妙に気になる話題だった。
その答えを知るために、氷河は とりあえず いったん暴走を取りやめた。

「俺と一緒の時は?」
氷河が問うと、蘭子は 暫時 その視線を天井に投げて 考え込む素振りを見せた。
氷河と一緒にいる時の瞬に関して、蘭子は即答できるほど定まったイメージを抱いてはいなかったのだろう。
首をかしげかしげしながら、蘭子が氷河の質問に答えてくる。

「そうねえ。氷河ちゃんと二人でいる時は、綺麗すぎて危険な二人。女の子にも いいとこのお坊ちゃんにも マーマにも見えないわ。ナターシャちゃんと三人の時は、娘に甘々の親馬鹿亭主を 笑顔で巧みに操縦している若妻――ってとこかしら。瞬ちゃんは、場の空気を読め過ぎるのか、順応性に優れているのか、一緒にいる人に合わせて、カメレオンみたいに変幻自在で、千変万化するのよね。氷河ちゃんは、誰といても変わらず、不愛想で不器用な氷河ちゃんなのに」
それは仕方がない。
氷河は場の空気を読んで、その場に馴染むことのできない男だった。
そんな器用なことができたなら、『おまえに接客業が務まるなんて、世の中 おかしい』と、未だに 星矢に言われ続けてはいないだろう。

「ナターシャはーっ !? 」
深夜0時過ぎだというのに、爆発寸前だった氷河の小宇宙に触発されたのか、ナターシャが目覚めてしまったらしい。
場所が自宅ではなく オデカケ先なので、少々 興奮気味。
ナターシャは、目が ぱっちりと開いてしまっていた。
氷河が顔を引きつらせたあたりから、彼女は 大人たちの話を聞いていたようだった。

氷河がカウンターの中でお仕事中なので、ナターシャは パパに じゃれついていけない。
パパのお仕事の邪魔をしないように、ナターシャは蘭子の腕にぶら下がって遊び出した。
ぶら下がったまま、元気な声で 蘭子に尋ねる。
ナターシャがぶら下がっている たくましい腕を上下させながら、蘭子は ゆっくりと笑顔になった。
これで、氷河の爆発を阻止できると、彼女は考えたのだ、おそらく。

「ナターシャちゃんは、誰といても、とっても可愛くて 幸せな女の子よ。パパといる時が いちばん可愛いかな」
「ウフフ」
蘭子の答えが嬉しかったのだろう。
いつもは おねむの時間なのに完全に覚醒モードで、ナターシャは 春の陽光に触れた花が開くように ぱっと破顔した。






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