終電には間に合わなかったので、その日、蘭子の運転する車で ナターシャと共に帰宅。
瞬は まだ、帰っていないようで、瞬の部屋の灯りはついてなかった。
急患が運び込まれて、準夜勤が深夜勤になってしまったのかもしれない。
救急指定病院は、紛う方なきブラック企業である。

そんなこともあって、自宅に帰り着いた頃には、蘭子から提供された情報を、氷河は ほとんど忘れかけていたのである。
瞬は ナターシャより どこぞの男の方が大事だったわけではなく、病院に行ってみたら人員の都合で、準夜勤から深夜勤への変更を余儀なくされてしまっただけだったのかもしれない。
あるいは、瞬が会っていた男は深刻な病気を抱えている病人で、瞬がわざわざ赤坂のホテルまで足を運ばざるを得ない事情を抱えていたのかもしれない。
相手が重篤な病人なのだとしたら、瞬も かえって深刻な顔をするわけにはいかず、にこにこするしかないだろう。
瞬が会っていた女性の方も、病人だったのかもしれない。
重病人の場合とは逆に、女性の病気が深刻なものでなかったら、瞬は 深刻な顔になることもできるだろう。

瞬が そうしなければならない事情や経緯は、瞬ならぬ身の氷河にも いくらでも思いついた。
だから、翌朝 目覚めた時には、バリバリのキャリアウーマンのことも 羽振りがよさそうなイケメンのことも、氷河は すっかり忘れていたのである。
朝食は 朝方(?)氷河の部屋に来た瞬が 用意してくれていた。
ナターシャは、瞬の作ったチーズオムレツに、ケチャップで『ぱぱ』の字を書いている。
氷河が 昨夜の蘭子の話を思い出したのは、“大切なことは絶対に忘れない”ナターシャが、オムレツ用のスプーンを握りしめて、
「マーマ。あのね。ナターシャはパパと一緒にいる時が いちばん可愛いって、昨日、蘭子ママが言ってたヨ!」
と、マーマに“大切な”出来事を報告したからだった。

それで バリバリのキャリアウーマンと 羽振りがよさそうなイケメンのことを思い出した氷河は、ナターシャの報告に便乗する形で、瞬に その二人のことを尋ねたのである。
「そういえば、ママが、4日前にFSホテル、昨日はRCホテルで、おまえを見掛けたと言っていたぞ」
と。
氷河は、すぐに納得のいく説明をもらえるものと信じていた。
瞬が どこで誰と会っていても、それは悪いことではないのだし、どういう事情で会っていたのかを教えてもらえさえすれば、それを疑うつもりもない――疑わず、事実として受け入れる。わざわざ真偽を確かめようともしない。
『守秘義務違反になるから言えない』という答えでも、では やはり瞬は医師として彼等に会っていたのだと納得し、それ以上の詮索もしなかっただろう。
疑う必要は、どこにもないのだから。
しかし。

瞬は、蘭子の目撃情報を、
「蘭子さんの見間違いでしょう」
と言って、否定したのである。
そもそも その日、自分は どちらのホテルにも行っていないと、瞬は言ったのだ。

氷河は、瞬を信じていた。
瞬は善良で、自分を利するために他者を犠牲にしたり、嘘をついたりすることのできない人間である。
もし 瞬が嘘をつくことがあったとしたら、それは必ず “誰か”のため。
そんなふうに、氷河は瞬を信じていた。

そしてまた、氷河は 蘭子も信じていた。
蘭子は、瞬のように完全に善良とはいえず、必要とあらば 悪事と呼ばれるような行為も辞さない、清濁併せ呑む度量の持ち主である。
相手が尊敬できる人物ならば、性別 年齢 社会的立ち位置にこだわらずに尊重するし、その人物が美貌なら、一層の好意を抱く。
つまり、中身も重視するが、見た目も重視する。
気に入った人間を ぞんざいに扱うことはない。

そして、“瞬”は、蘭子の“気に入り”である。
彼女が雇っているバーテンダーたちとは異なる次元で、蘭子は瞬を気に入り、評価し、重んじていた。
蘭子が瞬を見間違うはずがない。それは ありえない。
偶然 瞬を見掛けたなら、蘭子は、それが本当に瞬かどうかを確かめたはずだった。
相手は、彼女の“気に入り”の瞬なのだから。

そんなふうに、氷河は蘭子を信じていた。
瞬がいるはずがない(と氷河が思っていた)ホテルで瞬の姿を見たと 蘭子に言われた時、氷河は それが蘭子の見間違いである可能性を全く考えなかった。
彼女は、そんなミスを犯さないのだ。

瞬は嘘をついている。
それが、氷河の判断だった。
そう判断して――氷河は、蘭子が言っていた瞬の密会相手のキャリアウーマン 及び イケメンの正体を、初めて 真面目に考え始めたのである。

瞬は自分のための嘘をつくことはない。
とすれば、それは、瞬が会っていた二人のための嘘ということになる。
もしくは、瞬の仲間やナターシャのため。
社会や世界、人類のための嘘ということもあるかもしれない。
たとえば、問題の二人が 他聞をはばかる病気を抱えている。
たとえば、問題の二人が 瞬の同居人や仲間たちに害意や敵意を抱いている。
たとえば、問題の二人が “顔の無い者”の関係者(ギルドの被害者の関係者等も含む)である場合。
顔の無い者絡みで何らかの問題が起きているのであれば、瞬は、彼等とナターシャを接触させないために、ナターシャと彼女のパパに何も語らないだろう。

そのいずれであっても、他の事情があるのだとしても、氷河は 瞬の行動の理由を確かめなければならないと思ったのである。
瞬が嘘をつかなければならないような状況は解消されなければならない、
幼い頃から 瞬の清らかな強さに 支えられ 守られてきた氷河の、それは義務感のようなものだった。
瞬の周囲を できる限り清浄清冽にしておきたいと考え、そのために行動することは。
そのために 瞬が会っていた二人の素性を探るための行動を開始した氷河は、瞬の素行調査まがいのことを始めて 僅か3日後、衝撃の場面の目撃者になってしまったのだった。






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