「ナターシャちゃん、どうして急に旅に出ることを思いついたの?」
顔を瞬の肩に埋めたまま、瞬の首に両腕をまわして きつくしがみついているナターシャに、瞬は叱責ととられぬよう 意識して穏やかな声で尋ねたのである。
「だって、ナターシャは、マーマに パパと一緒にいてほしかったんだモノ!」
答えが即答だったのは、おそらくナターシャが アベリアの植え込みの陰に しゃがみ込んでいた4時間の間、それだけを考えていたから――だったろう。
これは、マーマに パパと一緒にいてもらうため。
マーマに パパと一緒にいてもらうには こうするしかないんだ。
マーマに パパと一緒にいてもらうには、ナターシャがいなくなるしかないんだ。
――と、それだけを。

「どうしてナターシャちゃんも一緒じゃいけないの?」
「……」
その質問への答えは即答ではなかった。
おそらく この4時間、そのことは考えないようにしていたから。
自信がなさそうな口調で、小さな声で、ナターシャが答えてくる。
「マ……マーマには、マーマの大切な夢があって、その夢を叶えるのに、コブツキのカイショウナシのコモチオトコになったパパは 邪魔になるんダヨ。パパが コブツキのカイショウナシのコモチオトコだから、マーマには パパとナターシャの他に一緒にいたい人ができたんでショ。ナターシャがいなくなって、パパが コブツキのカイショウナシのコモチオトコじゃなく、ただのパパになれば、マーマは これまで通り、パパと一緒にいてくれるんだって、ナターシャ、思ったノ」
「……」

ナターシャの中に そんな考えを吹き込んだ 残虐非道の極悪人が誰なのかが、瞬には すぐにわかった。
マーマを離してなるものかと言わんばかりに強く、瞬に しがみつき、鼻をすんすん言わせているナターシャの頭を撫でながら、氷河を、絶対零度の数百倍の冷たさを込めた瞳で睨みつける。
バルゴの瞬の新しい必殺技に アクエリアスの氷河は凍りつき、瞬は そんな氷河を解凍してやろうともしなかった。

「ナターシャちゃん、それは誤解だよ。僕と氷河は ナターシャちゃんが大好きで、ナターシャちゃんがいないと とってもとっても寂しいよ」
「マ……マーマは、でも、パパがコブツキだから、パパと一緒にいられなくなっちゃったんでショ?」
「そんなことは 絶対にないよ。ナターシャちゃんが一緒でない氷河なんて、イチゴのないイチゴパフェみたいなものだよ。全然 可愛くない。ナターシャちゃんだって、イチゴのないイチゴパフェなんて嫌でしょう?」

「ん……と」
イチゴのないイチゴパフェを想像して、ナターシャは、瞬の言うことに納得したらしい。
瞬の肩に埋めていた顔を上げ、瞬の首に腕をまわしたままで、ナターシャは ごしごしと、自分の目の周りを濡らしていた涙を拭った。
「ナターシャは……ナターシャは……」
「ナターシャちゃんは?」
瞬は ナターシャの気持ちを訊いたのに、ナターシャから返ってきたのは 彼女のパパの気持ちだった。

「パパはマーマが大好きなノ。マーマがいないと だめだめナノ。ナターシャは、パパとマーマに一緒にいてほしかったノ。ナターシャがいなくなれば、パパとマーマが一緒だった頃に戻って、マーマはパパと一緒にいてくれるんだって思ったノ。だから、ナターシャは旅に出ようって思ったノ……」
「ナターシャちゃんだって、氷河が大好きでしょう。氷河と一緒にいたいでしょう」
「だって、ナターシャは……ナターシャは……」
ナターシャの声が詰まる。
ナターシャは、決して、自分の気持ちを言葉にするのがヘタなわけではない。
ただ ナターシャは―― ナターシャは いつも、自分の気持ちではなく、パパの気持ちのことばかり考えているのだ。
「ナターシャちゃんは、パパのために 自分が寂しいのは我慢しようと思ったんだね」
「だって……だって、ナターシャはパパが大好きなんダヨ……ッ!」
ナターシャの心は、パパへの愛でできているのだ。

「うん。ごめんね。僕もナターシャちゃんと氷河が大好きだよ。僕の夢は、氷河とナターシャちゃん無しで叶えたって意味がない。僕は、ナターシャちゃんと氷河がいるから 頑張れる。ナターシャちゃんがいてくれないと、僕だって だめだめになっちゃうよ」
「マーマが……?」
にわかには信じ難いと言うように、ナターシャは一度 大きく 目を(みは)った。
だが、それは事実だったので、瞬はナターシャに 作り物でない微笑と首肯を返したのである。

「うん。だから、ナターシャちゃん。これからも 僕と氷河と一緒にいてください」
ナターシャは、マーマの“お願い”に、すぐに明るい笑顔になった。
「ナターシャは、ずっとずっとパパとマーマと一緒にいるヨ! ワーイ、ヤッターッ !! 」
喜んで万歳をした拍子に、ナターシャの上体が後方に のけぞり、倒れそうになる。
それを受け止めたのは氷河で、瞬はナターシャを ナターシャのパパの許に戻したのである。
氷河には、言いたいこと、確かめたいことがたくさんあったのだが、彼がナターシャを抱きかかえていてくれると、とりあえず 人前で氷河を叱責せずに済む。

氷河の面目を保つために、最強の盾を氷河に貸してやったのに、
「パパ、パパ、よかったネ! マーマはずっとパパと一緒にいてくれるっテ! ナターシャ、大々安心ダヨ。パパは だめだめ回避ダヨ!」
その最強の盾の歓喜の声によって、氷河の面目は ほぼ壊滅状態に陥った。
パパの心を守り、パパが だめだめ状態に陥ることを回避し、小さな女の子に守られるパパの実像を浮き彫りにすることで、パパの面目を完膚なきまでに破壊してのけるナターシャは、まさに攻防一体のネビュラチェーンさながら、八面六臂の大活躍である。

そんなナターシャを見詰めて微笑んでいる松山夫妻を 冬の寒空の下に立たせていたことに、今になって気付き、瞬は慌てて彼等にマンションのエントランスのロビーラウンジへの移動を提案したのだった。

バリバリのキャリアウーマンである松山夫人は、自分たちの事情をナターシャのいるところで語ることを ためらったようだった。
だが、ナターシャが 氷河にしがみついて離れようとしないので、
「大丈夫です。ナターシャちゃ……娘にわかるのは 人の優しさや愛情だけで、面倒な大人の事情は わかりませんから」
という瞬の言葉に従って、主に氷河のために、彼女は語り出したのである。
瞬に説明させるわけにはいかないと、彼女は思ったようだった。

「私か夫が、瞬先生と親密な お付き合いをさせていただいていると誤解されたのでしたら、それは大変 光栄なことですけれど、全くの誤解です。そうでないことは とても残念で、そうだったなら、本当に光栄なことだと思うんですけれど」
氷河の誤解を解くため。
そんな誤解をされてしまった瞬の立場を慮って。
誤解した氷河の気まずさを解消するため。
誤解した氷河を 瞬が責めずに済むように。
自分たちは 氷河の誤解を不快に思っていないことを伝えるため。
松山夫人の前置きは、幾つもの気遣いと優しさから成っていた。

その気遣いに対して、感謝の表情も安堵の表情も作れない氷河の代わりに、瞬が その役目を担う。
訳がわかっていないのだろうナターシャも、パパとマーマを援護する笑顔を浮かべて、場の空気を和らげた。
それでも追いつかないほど、松山夫妻の事情は深刻なものだったが。






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