多くの異世界人の命(存在)を容赦なく消し去った瞬は、もはや 愛の心だけの人ではありません。
清らかな心の持ち主とも いえません。
愛の心だけの人でなくなっても、せめて、自分のしたことを忘れてしまえたなら救いもあったでしょうが、忘却という恵みが 瞬に与えられることはありませんでした。
自分のしたことを正しく明瞭に理解している瞬の瞳は暗く、まるで 死の影にまとわりつかれているようです。
すべての人と 世界への愛ゆえに、瞬は それをしたのに、ピュシスの天なる愛の意思は、清らかな愛だけの存在でなくなった瞬を 即座に見捨て、瞬に備わっていた強大な力を奪い取りました。
そうして、瞬は、ピュシスで最も非力で貧しく醜い者になってしまったのです。


瞬の愛によって救われたのに、瞬の愛によって救われたピュシスの者たちは 誰もが 瞬を恐れ、厭い、避けました。
清らかな愛の心を失い、ピュシスの天なる愛の意思によって 力を奪われ、ピュシスの国で最も弱い者になってしまった瞬を、ピュシスの民は ピュシスの都から追い出してしまいました。
白亜の城館も、美しい衣服も、仕えていた百人に及ぶ召使いも奪われ、瞬は、隠者シャカと同じものになってしまったのです。
いいえ、シャカより哀れなものになってしまったのです。
シャカは、自らの意思で慈悲の心を捨てて隠者となり、荒野に住まう者になったのですが、瞬は 自分の意思で荒野に生きる身になったのではなく、瞬が愛し救った同胞によって 持てるものをすべて奪われ、彼等の世界から石もて追われたのですから。

愛が治める国の民のくせに、瞬への愛や感謝の心はないのかと、ピュシスの民は皆 恩知らずだと憤らないでください。
彼等は、世界を守るために自らの愛の心を消し去る覚悟をした時の瞬ほどの高みには至っていない、未熟な愛の信奉者たち。
彼等は、愛の心を失ってしまった瞬を愛せるほどの愛を持っていない。
彼等は、愛の心を失ってしまった瞬が恐いのです。
しかも、彼等は、瞬の強大な力を見せつけられたばかり。
彼等は、今はどんな力も持っていない瞬が、恐くて恐くて たまらない。
彼等は、どうしても、瞬と同じ場所で生きることはできないのです。


瞬は今は、“無”といっていい存在でした。
清らかな愛の心だけでできていた瞬から 愛の心が消え去ったのですから、そこに残るのは無。
瞬の心は 無になってしまったのです。
無となった瞬の心は、もはや 何にも動かされることはなく、傷付くこともありません。
瞬を恐れ、瞬を虐げる者たちの冷酷な仕打ちを悲しむ気持ちさえ、今の瞬には持ち得ないのでした。

清らかな愛の心が失われ、ピュシスの国で最も低い身分に落とされ、国の民の誰からも疎まれ避けられる瞬。
氷河は、そんな瞬を――愛の心を持っていない瞬を、嫌いになることはありませんでした。
嫌うどころか、氷河は 以前より 一層 瞬が愛しくてなりませんでした。
瞬は、氷河が好きだった愛と優しさに満ちた瞬ではないのに、不思議なことです。

もしかしたら、それは、氷河が瞬に向けている愛が“恋”と呼ばれるものだからなのかもしれません。
隠者であるシャカ同様、布一枚だけの みすぼらしい服。ぼろぼろのサンダル。
住む家はなく、岩陰や洞窟に身を潜ませるしかない瞬。
そんな瞬を、氷河は懸命に助け、庇い、守りました。
瞬を追って荒野に出、瞬と共に荒野に暮らす身になってから、氷河の愛の力は段違いに強く大きくなりました。
その力を使えば、水や食べ物を確保することは容易でしたので、氷河は 瞬と自分の命を 繋ぐことは問題なくできました。

けれど、瞬は、氷河を拒むのです。
愛を失った瞬の心からは、氷河を愛する気持ちも消えたのでしょう。
瞬は氷河に、『側に来ないで』と言うのです。
氷河に側にいられると、なぜか心や身体が痛むから、側に来ないでほしいと、虚ろな目をして 瞬は言うのです。
痛い、痛い、痛い。だから僕の側に来ないでと、氷河が瞬に手を差しのべるたび、瞬は氷河に訴え続けました。

そんなふうに 瞬に拒まれ、退けられるたび、氷河の心は――氷河の心もまた痛いのでした。
どれほど拒まれ 退けられても、瞬を思う気持ちは消えないので、氷河の心の痛みは日々 強く激しくなっていきました。
このままでは、二人は、この痛みに耐えられなくなり、いずれ死んでしまうだろう。
痛みが そこまで耐え難いものになった時、氷河は気付きました――はっきり わかりました。
自分たちが この痛みから解放されるには、二人が死ぬか、あるいは、失われた瞬の愛の心を取り戻すしかないのだということに。

シャカが瞬から消し去った愛の心は、今は どこにあるのか。
氷河がシャカに尋ねますと、『それはもうない』と、シャカは氷河に言いました。
「瞬の愛の心は 宙に溶け込み、極楽に至る十万億土の彼方に飛んで行ってしまったのだ。そこは、生きている者は決して行くことのできぬ場所だ」
と。
では、別の愛を瞬の中に入れることはできないだろうか。
その問い掛けに対するシャカの答えは、またしても絶望的。
「それは、ピュシス以外の世界に行って、瞬にふさわしい愛の心を持つ者に、その愛を分けてもらうしかないだろう。そんな愛の心を持つ者が必ずいるとは限らないが、絶対にいないと言うこともできない。瞬にふさわしい愛を持つ者に出会えるまで、異世界を幾つも巡って探し続けるのだ」

瞬のためになら、どんな苦労も厭いません。
氷河は、厭わないつもりでした。
けれど、その苦労を どうやってすればいいのでしょう。
無茶なことを言うシャカに、氷河は、ほとんど投げ遣りに――答えを期待せずに問うたのです。
「異世界を、どうやって巡るんだ。どうすれば そんなことができる」
シャカの答えは、とても意外なものでした。
今の氷河は 既に その力を有していると、シャカは、事もなげに言ったのです。

氷河の持つ力は、ピュシスの天なる愛の意思(神)が一段低く見る“恋”でしかないが、その力は 今、恐ろしいほど強大になっている。
それは清らかな愛ではないから、氷河が ピュシスで高い身分を与えられることはないだろうが、今の氷河に できないことはない。
シャカは、氷河にそう言ったのです。

そんなことを言われても。
シャカの言葉は、氷河には にわかには信じ難いものでした。
信じられるわけがありません。
つい この間まで、瞬に捧げる小さな花を凍らせることくらいしかできなかった自分が、異世界を自由に行き来できるほどの力を持っているなんて。
そんな力は、愛の心を消し去る前の瞬ですら持っていなかったのに。

「できないと、自分で決めつけるなら、確かに君には 何もできないだろう」
シャカは、いつも通りに冷ややかに、突き放すような口調で そう言いました。
それはそうです。
シャカの言うことは正しい。
自分で自分の力に限界を定めたら、人は その限界の先に行くことはできません。
氷河は、瞬のためになら、そんな限界を越えることができるような気がしました。
いいえ。越えなければならないと思いました。
ですから、氷河は、瞬にふさわしい愛の心を見付け出すために、異世界を巡る旅にでる決意をしたのです。
今は どんな力もなくなった瞬を、シャカに預けて。






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