氷河が最初に辿り着いた異世界は冥界でした。
人間が生きたまま冥界にやってくることは1000年に1度 あるかないかの大椿事。
しかも、その際には 決まってよくないことが起こるのだそうで、用心のためか、好奇心からか、あるいは暇を持て余していただけなのかは定かではありませんが、神でも半神でも英雄でもない ただの人間である氷河に、冥府の王は直接 会ってくれました。
ただの人間に途轍もない厚遇です。
もっとも、冥府の王ハーデスは、氷河の話を聞くと、
「愛? 馬鹿げている」
と、言下に氷河の行動を否定してくれたのですが。

ハーデスは、氷河の行動には否定的でしたが、瞬の境遇には とても同情的でした。
どうやら彼は、以前から瞬に対して並々ならぬ関心を抱き、瞬が冥府に来る時を心待ちにしていたらしいのです。
「哀れなことだ。人間という生き物は実に残酷だ。愛を盾にして間違った正義を主張する。自分が生き延びるために、他者に罪を犯させ、自分だけは汚れていないと言い張る。そんな輩は、この冥界では、善も悪も為さなかった無為の者として、地獄に入ることも天国に入ることも許されず、永遠にアケローン川の岸で虻や蚊に刺されて暮らすしかない。罰する価値もない者たちだ」

愛は錯覚。愛で幸福になれると期待するのが、そもそもの間違いなのだ。
そう、ハーデスは言いました。
ピュシスの恩知らずたちを 助けてやる必要はなかった。口で愛を唱えているだけの軽薄な輩は、見捨てることこそが正義の執行だったのだ――と。
それがハーデスの意見でした。

ハーデスの言は、氷河の考えに一致するところもありました。
氷河は、瞬のおかげで 命を永らえながら、瞬を虐げたピュシスの者たちを恨んでいました。
とはいえ、ハーデスの考えは、瞬の愛の心とは相容れないもの。
正義では、瞬の心を救うことはできません。
氷河は、得るものもなく手ぶらで、冥界を後にすることになりました。



氷河が次に辿り着いた異世界は、争いの国。
争いの女神エリスが支配する世界でした。
彼女は、氷河の話を聞くと、実に楽しそうに呵々大笑。
「愛の治国といっても、所詮は その程度。愛とは怠惰の異名。争い戦う気力のない怠け者たちが、自分の怠惰を美化するために“愛”などという、ありもしない概念を作り出し、有り難がっているだけなのだ」
エリスは、ピュシスの民だけでなく、ピュシスの国そのものを貶し、蔑みました。

瞬は、怠惰どころか、自らの命をかけてピュシスの国を救ったのに。
エリスの雑言が、氷河は許せませんでした。
「そなたの面構えが、わらわは大いに気に入った。怒りが 美しさを いや増しに増している。ここに残って、わらわと暮らそう。愛しているのに 愛を返してくれない者への愛など、遠からず 憎しみに転じるもの。そなたは、憎しみに向かう道を ひた走っているのだ」

エリスは そう言って、氷河の頬に手をのばしてきました。
愛しているのに 愛を返してくれない者への愛など、遠からず 憎しみに転じるもの。
エリスの愛は、そうなのでしょう。
そうなる前に、氷河は争いの国を あとにしました。



その後も、氷河は、海の王の国や 天上の世界に飛んで、瞬に ふさわしい愛を持つ人を探し続けました。
そして、どの世界でも、手に入れられたのは失望だけでした。
ピュシスの外の世界では、誰も“愛”を重んじていなかったのです。
重んじているのは、正義だったり、武力だったり、金品だったり、秩序や法だったり、とにかく 心に関するものではありませんでした。
そして、誰もが言いました。
心なんて、愛や優しさなんて、そんな 定義することすら難しい形のないものを世界で最も価値あるものにしたりしたら、そんな 頼りない世界は立ち行かないに決まっている。そんな世界は 早晩 滅びることになるだろうと。

『そんなことはない』と言い返すこともできず、氷河は 幾つもの世界から失望だけを受け取って、その世界をあとにしたのです。
愛なんてものには、どんな力もない。
そう言われても、氷河は、そういう人たちに賛成することはできませんでした。
それは、瞬が 大切にしていたもの。
氷河を、こうして動かしているもの。
どんなに否定したくても、氷河には 愛の力を否定することはできなかったのです。






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