冬の匂いの残る光が丘公園。
幸福だった頃のきらめきは、あまりに鮮明で強烈だったので、それらは今でも消えずに、公園の至るところに残っていた。

『パパ、パパ、見て! ナターシャ、てっぺんまで いちばん早く登ったんダヨ! マーマ、見て! ナターシャがいちばんだったんダヨ!』
光が丘公園の ちびっこ広場にあるザイルクライミングの頂。
大きく広がったスカートでも気にせずに、ナターシャは 年上の男の子たちより素早く大胆に、ザイルを登ってみせた。
『パパ、パパ、マーマ! ナターシャ、地球より速くまわってるヨ!』
小学生でも、初めての時には その回転スピードに腰が引けるエンドレス・ターザンロープに、ナターシャは最初から明るく弾んだ歓声を上げていた。
四つ葉のクローバーを見付けた芝生広場。
蟻の引越しの列を追いかけたケヤキ広場。

光が丘公園の そこここに、ナターシャの声が、ナターシャの面影が残っていた。
つらい思いに囚われることがわかっているのに、時間が空くと足を向けてしまうのは、どんなに つらくても彼女のことを忘れたくないからなのか。
だから、わざわざナターシャの思い出の残る公園に来て、彼女を失った悲しみに身を浸してしまうのか。
わざわざ つらさを求めなくても、 忘れられるわけがないのに。
それとも いつかは忘れてしまうのだろうか。
彼女と過ごした日々の幸福も、今 彼女がいない寂しさも。


忘れてしまう方がいいのか。
忘れるべきではないのか。
忘れて、別の幸福を求めるべきなのか。
忘れてしまうと、逆に悲しいのか。
どうするのが正しくて、どうなるのが よいことなのか。
氷河はどうしたいのか、自分は どうすべきなのか。

光が丘公園の ちびっこ広場に通じる遊歩道脇のベンチに、所在無げに座っている氷河の横顔、肩、以前の彼からは想像できないほど悲しく丸まった背中。
声には出さずに 氷河の名を呼んで、瞬は、氷河が掛けているベンチの隣りに腰を下ろした。
無言で、両腕で瞬の肩を抱くようにして、氷河が瞬にすがりついてくる。

紅葉と銀杏の葉を集めて、歓声をあげた。
小さな雪ウサギを作って、赤い南天の目を入れた。
花見の季節には 地面に落ちる前の桜の花びらを集め、夏は、特大フルーツパフェに三人で挑む計画を立てていたのに。
毎年 パパとマーマとナターシャの雛人形を作り、何年分も並べて美術館を作るはずだったのに。
三人一緒に、いちにのさんで死ぬはずだったのに。
その約束が破られることがあったなら、破るのは くだらない常識や分別を持つ大人の方で、ナターシャは断固として約束の履行を求めるのだろうと思っていたのに。
瞬は、こんなことになるとは思っていなかった。
氷河も、ナターシャも、誰も、思っていなかっただろう。

「氷河……」
「みんな、俺を置いていく……。マーマもカミュもナターシャも……」
氷河の涙は枯れてしまったのだろうか。
彼は泣いていなかった。
だが、瞬は、氷河の嘆きに接して、『僕は泣きたい』と思ったのである。

瞬は泣きたかった。
こんなにも つらそうな氷河の声と言葉を聞くことになろうとは。
こんなにも つらそうな氷河の肩と目を見ることになろうとは。
ナターシャとの幸せの中にいる時には考えもしなかった。
この幸福を守ろうと思ったし、守り抜くつもりだった。
だからこそ、失われることは考えなかった。
もし この幸福が失われることがあったなら、その時には 自分の命は失われているに違いないと、瞬は思っていたのだ。

だが、あの可愛いらしい幸福は失われた。
あの明るく温かな幸福は失われた。
瞬は、守り切れなかったのだ。
瞬こそ泣きたかったのである。
しかし、瞬は悲しんでいられなかった。

「そんなことはないよ。みんな、氷河の側にいる。氷河と一緒にいる。僕が……星矢や紫龍や一輝兄さんだって……」
それは、実に ありふれた、だが、誰にも否定できない確かな事実。
にもかかわらず――その慰撫の言葉が確かな事実を述べるものであっても、それで、人の心が癒されるとは限らないのだ。
「おまえだけでいい」
瞬を抱きしめている氷河の腕に強い力が こもれば こもるほど、瞬に すがりついている氷河こそが非力で小さな子供のようだった。
拘束具のように きつく締めつけてくる氷河の腕を少しずつ なだめ、慰め、瞬は 何とか自分の腕を 氷河の背にまわすことができた。

たとえ冗談でも、言葉の綾にすぎなくても、『おまえだけでいい』という考え方は よくない。
“おまえだけ”では、“おまえ”がいなくなった時、氷河を支えられる人がいなくなってしまうのだ。
“おまえとナターシャがいれば”だったから、ナターシャがいなくなった今、“おまえ”がこうして氷河を温め、抱きしめ、支えることができている。
瞬は、氷河の背を、肩を、髪を、撫でた。

「氷河は綺麗で優しくて 愛情深いから、氷河に可愛い女の子をあげようって思ってくれる女性は たくさんいると思うよ」
「俺のマーマは一人だ。娘も一人。もう、失うことにも、別れることにも耐えられない」
「氷河……」
「おまえだけだ。最後まで俺と一緒にいてくれるのは」
それだけは、氷河にも信じていられるらしい。

愛しすぎて、いつも傷付く氷河。
幼い頃、たった一人の大切な人だったマーマを失い、深い悲しみを経験し、深く傷付いた氷河。
それでも 彼が 人を愛することを恐れる大人にならず、今でも 人を愛しすぎることができるのは、彼より強く 彼より愛の力に優れた仲間が自分の側にいることを、彼が知っているからなのかもしれなかった。
愛しすぎて傷付いても、その傷を癒し 慰めてくれる人の存在があるから、氷河は人を愛することを恐れずにいられるのだ。
せめて、そう思いたい。

「泣かないで。僕はいつまでも、氷河の側にいるから。だから、氷河は 絶対に一人ぽっちにはならないよ」
涙を生むことができず、枯れ乾いて痛む目を癒すために、氷河が目を閉じる。
「死も、僕たちを分かつことはできないから」
目を閉じて、瞬の言葉に救いの水を求める。
「生が永遠のものでないように、死も絶対のものじゃない。氷河、ナターシャちゃんが見てるよ」
少しずつ、氷河は 元の氷河――人を愛することのできる氷河――に戻っていくはずだった。
ナターシャの生と死が、氷河の心を傷付け苦しめるだけのものであってはならない。
ナターシャが、そんな悲しく貧しい存在であることを、他の誰でもない氷河が許さないだろう。

「氷河の いちばんの娘孝行は、氷河が永遠にナターシャちゃんのカッコいいパパでいることだよ。ナターシャちゃんは、とっても優しい子だったから―― ナターシャちゃんの望みは、きっと、氷河みたいに悲しいパパを二度と生まないよう、二人と作らないよう、氷河が 平和のために戦う 強くて恰好いいパパでいることだよ」
「そして、おまえに愛されている俺だ」
「うん……」
ナターシャは パパが大好きだったから、パパの幸せが何であるのかを、誰よりもよく知っていた。
大好きなパパの幸せが、彼女のいちばんの望みだったのだ。






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