「助けて。誰か氷河を助けて。このままじゃ、氷河がショブンされちゃう。氷河が殺されちゃう。氷河が死んじゃう」
氷河を救えるのは、氷河しかいない。
だが、氷河に働きかけても、氷河は『処分されたくない』と思うようにはなってくれないだろう。
氷河の心を動かすことができるのは、彼を救うために その命をかけた氷河のマーマだけで、他の人間は誰も彼の心を変えることはできないのだ。
瞬は、それが悲しかった。

死んでしまったマーマは無理でも、せめて女神様やマリア様が氷河を助けてくれないものか。
瞬が、城戸邸の庭にあるローズマリーの茂みで 神様にお願いをしたのは、以前いた教会の神父様に、ローズマリーはマリア様の花だと教えてもらったことがあったからだった。
マリア様が何をした人なのかは 知らないが、イエス様のお母さんだということは知っている。
イエス様は 大人の男の人なので、マリア様は おばあさんの女神様なのかもしれないが、瞬は、氷河を助けてくれるなら、それが誰でも――おばあさんでも おじいさんでも構わなかったのである。
しかし、さすがに、自分の願いに応えてくれるのが 自分より小さな女の子――というパターンは、瞬の想定外だった。

想定外だったのだが、実際、瞬の呼び掛けに応えてくれたのは、瞬より小さな女の子だったのだから、仕方がない。
「パパをショブンなんて、させないヨ!」
力強く断言して、瞬の前に現れたのは、長い髪を赤いリボンでツインテールにした活発そうな女の子だった。
大きく広がった臙脂色のスカートと、同じ色の丈の短い上着。
くりくりした大きな瞳は きらきらと輝き、そのせいで彼女は、瞬より2倍くらい勝気そうで、瞬より3倍くらい自信に満ちているように見えた。

「パパは殺されナイヨ! 大丈夫ダヨ!」
はきはきした口調。意思的な瞳。
にもかかわらず、少女の姿自体は ひどく曖昧で、その輪郭が はっきりせず、まるで3次元ホログラフィを見ているようだった。
触れることもできない。
だが、彼女が神様のお使いなら(さすがに、この小さな少女が神様自身ということはないだろう)それが普通なのかもしれないと、瞬は思ったのである。
少女は、なぜか 氷河を『パパ』と呼んでいた。

「ナターシャ、パパを死なせたりしないヨ! どうすれば、パパは死ななくて済むノ? ナターシャ、何でもするから、どうすればいいのか教えて、マーマ」
「……」
“ナターシャ”というのが、この少女の名前なのだろうか。
“マーマ”というのは、誰のことだろう。
ホログラフィの少女の目は、まっすぐに瞬に向けられている。
だが、まさか そんなことがあるはずがない。
瞬は、彼女の言っていることが よくわからなかった。
全く わからないわけではないので、逆に 混乱が大きくなる。

そもそも神様の お使いのくせに、『どうすればいいのか教えて』とはどういうことなのか。
氷河を元気にする方法を教えてほしいのは、こちらの方だというのに。
それでも、強くて偉い神様の お使いだと思うので 恐る恐る、瞬はナターシャという名らしい女の子に尋ねてみたのである。
「あの……氷河は 氷河のマーマを助けてあげられなかったから、しょんぼりしてるの。氷河を元気にするには どうすればいいのかが、僕、わからないの」
強くて偉い神様の お使いの機嫌を損ねないように、できる限り丁寧に尋ねた瞬へのナターシャの答えは、
「そんなの、簡単ダヨ! マーマがキスしてあげれば、パパは あっというまに 元気100倍、やる気満々 1000パーセントだヨ!」
「……」

そのマーマが死んでしまったから、氷河は意気消沈しているというのに、その重大な事実を この小さな少女は忘れているらしい。
瞬は、短く吐息した。
「別の方法はないかな。氷河を元気にする……」
「もしかして、パパはマーマに叱られるようなことしたノ? それで、マーマはオカンムリなノ?」
本当に、この少女は何を言っているのか。
やはり神様本人でないと、頼りにならない。
そう考えて、瞬がナターシャに頼るのを やめようとした時。

「パパが元気になるのは、ナターシャがピンチの時と マーマがピンチの時ダヨ。デモ、ナターシャはピンチじゃないから、マーマがピンチの振りをすればいいヨ。パパはマーマが大好きダカラ、ピンチのマーマをカッコよく助けてあげられたら、超ゴキゲンになるヨ!」
ナターシャの言っていることは、やはり 瞬には 正しく理解できなかった――全部を正しく理解することはできなかった。
が、それはそれでそれとして。
一部、ナターシャが 素晴らしく いいことを言った――ような気がしたのである、瞬は。

氷河は、彼のマーマを助けることができなかったから、そのせいで 自分は無力で無価値な存在なのだと思い込んでいる。
もちろん、氷河のマーマを助けることは、もうできない。誰にもできない。
しかし、よそのマーマなら、氷河は今からでも助けることができるのだ。
よその、氷河ではない別の誰かのマーマを 助けることができたなら、氷河は自分にも 人を救い守る力があると思ってくれるのではないだろうか。

「よそのマーマでも……氷河は助けようとしてくれるかな……」
瞬の呟きに、ナターシャが、
「パパは正義の味方ダヨ。よそのマーマでも、ピンチになったら、パパは助けてあげるヨ! あったりまえダヨ!」
と、自信満々の太鼓判。
神様の お使いに『あったりまえダヨ!』と言われると、瞬も なんとなく、それは“あったりまえ”のことのような気がしてきた。

氷河が、ピンチに陥っている よそのマーマを助ける。
氷河は、それで、自分は何かができる、何かをする力のある人間なのだと、自信を持つことになるだろう。
それだけではない。
本当のマーマは無理でも、“誰かのマーマ”を助けることができたなら、それは、“(誰かの)マーマ”はもちろん、マーマの子供である“誰か”を救うことにもなる。
氷河は、マーマを失った氷河と同じ“悲しい子供”が増えるのを阻止したことになる。
それは、氷河自身をも救うことだろう。
そうして、氷河は生きる気力を取り戻すに違いない。
ナターシャの発言は(一部)、素晴らしいアイデアだった。

――が、どうやって?
どうすれば、氷河の前に、そんな状況を用意できるだろう。
何をするのも億劫そうで、毎日のトレーニングはおろか 食事の時にさえ、辰巳や仲間たちに急き立てられないと、部屋を出ようとしない氷河の前に。
氷河が助けてあげられるような よそのマーマが、そうそう都合よく現れてくれるわけもなく、そうそう都合よくピンチに陥ってくれるわけもないのだ。
では、どうすればいいのか。
それが問題だった。

「マーマ、いいアイデア、思いついタ? ナターシャ、協力するヨ。パパのためだったら、ナターシャは何でもスルヨ!」
ナターシャは協力すると言ってくれるが、もし 彼女にその力があるのだとしても、無理に誰かのマーマをピンチ状態にするわけにはいかない。
瞬は悩んだのである。
悩んでも悩まなくても、よその誰かのマーマを 危険な目に会わせるわけにはいかない――という結論が動くことはなかったが。
なので、“氷河が よその誰かのマーマを颯爽と救うシチュエーション”は諦めるしかなかったが、“氷河を元気にすること”は、どうしても諦められない。
瞬は、“氷河が誰かを颯爽と救って自信回復”のシチュエーションは諦められなかった。
氷河が元気な氷河になるのに、これほど素晴らしいシチュエーションはない。
瞬は、その思いをどうしても捨てることができなかったのである。
悩んで、考えて、最終的に瞬が行き着いた結論。
それは、“僕がピンチに陥るしかない”だった。

“マーマ”という要素のない自分を、氷河が助けようとしてくれるかどうかは 怪しいものだったが、その時は仕方がない。
わざとピンチに陥れても 心が痛まない相手は、瞬には瞬自身しかいなかったのだ。






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