瞬が目覚めたのは 救急病院の個室で、一輝と星矢と紫龍が(城戸邸の子供たちを代表して?)瞬のベッドの枕元を ぐるりと囲んでいた。 兄に、 「大丈夫だな」 と問われたので 頷くと、瞬が眠っている間に起こったことを、星矢が楽しそうに説明してくれた。 氷河の救出劇が終わってから、騒ぎに気付いた辰巳が駆けつけてきて、彼は早速 氷河を叱り飛ばそうとした。 が、両岸で事の成り行きを見守っていた人たちが、ボートから落ちた女性を救おうとした幼い子供たちの勇気と見事な救出劇を拍手で称賛。 勇気ある子供たちの保護者として辰巳までが称賛の対象になり、そのせいで、辰巳は氷河を叱るに叱れなくなってしまったらしい。 人命救助で表彰されるかもしれないという話が出た途端、辰巳は 喜々として、氷河と瞬ではなく、城戸光政とグラード財団の名を出したのだそうだった。 「Cが淵は、環境省、国土交通省、宮内庁、東京都、千代田区と、色々な役所や自治体が管理に絡んでいる場所だからな。この騒ぎを、事件事故ではなく美談にまとめて、誰もが責任逃れしたいんだろう」 全く子供らしくない紫龍の解説の是非曲直、適不適はさておいて。 氷河とおまえが罰を受けさせられることはないだろうから安心しろと、紫龍は言ってくれた。 氷河を元気にすることばかりを考えていて、辰巳の反応への対処を考慮していなかったことに思い至り、瞬は 今更ながらに慌てたのである。 だが、とりあえず、氷河も自分も辰巳に罰を科されることはないようなので、瞬は安堵の胸を撫で下ろした。 「あの……氷河は……?」 氷河の名を出した途端、兄の眉が吊り上がったので、瞬は急いで、 「助けてもらった お礼を言いたいから!」 と 大きな声で言って、兄を牽制した。 瞬は結果的に、氷河のためではなく、ボートから落ちた女性のために堀に飛び込んだのだが、こういうことには異様に勘のいい兄のこと、瞬が 氷河のために何事かを企んでいることくらいは察していたかもしれない。 瞬の計画に気付いていなかったとしても、『氷河が もっと早く堀に飛び込んでいれば、瞬は こんな目に合わずに済んだ』と、無茶な難癖をつけるくらいのことを、一輝は平気でやりかねなかった。 「氷河なら、いるぜ。ずっと おまえを見てたんだけどさ。さっき、一輝に鬱陶しいって言われて、壁際に追いやられちまったんだ」 「え……」 星矢に言われて視線を巡らすと、兄の後ろ、廊下側の壁に肩を預けて立っている氷河の姿があった。 堀に飛び込んで 冷たい水に浸かったはずなのに、全く元気。普通に自分の足で立っている氷河を見て、瞬は驚き、そして 安堵した。 氷河には やはり自分より100倍も“見込み”がある――と、嬉しい気持ちで、瞬は思った。 「氷河。助けてくれて、ありがとう」 「……」 瞬の『ありがとう』に、氷河は無言、無反応。 彼が 病室で 自分の目覚めを待っていてくれただけでも嬉しかったので、氷河の無反応に、瞬の心が傷付くことはなかった。 ここで 氷河に、『無事でよかった』と普通すぎる言葉をかけられたりしてしまったら、瞬は むしろ そのことに違和感と きまりの悪さを覚えていただろう。 無言の氷河が ちらりと視線を、瞬の兄の上に投げる。 もしかしたら、氷河は兄に『瞬と口をきくな』と言われたのかもしれない。 そして、氷河は、厄介な兄弟に関わることを躊躇しているのかもしれない――。 本当は、氷河には兄と仲良くなってほしかったが、急に すべてのことが良い方に転ぶことを望むのは 虫がよすぎる。 今はとにかく、氷河が生きる気力を取り戻し、やる気を抱いてくれさえすれば、それで十分。 計画通りだったのか、計画通りではなかったのか、それすらも よくわからないが、計画の目的は果たされたのだから、それで満足しようと、瞬は思った。 実際、瞬は満足していたのだ。 今、氷河の瞳には、以前の彼は もちろん、他の誰の瞳にも見たことがないほど強い輝きが宿っていたから。 氷河は、だが、意外と恐いもの知らずなのかもしれなかった。 氷河は瞬の兄の睥睨を無視して、 「おまえ、よく、ためらわずに飛び込んだな」 と、ベッドに横になっている瞬に 尋ねてきた。 「え……」 こんなに長い文章で(?)、氷河に話しかけられたのが初めてだったので、瞬は少し どきどきした。 氷河の日本語には 外国語訛りもない。 声と言葉だけ聞けば、普通の日本人のそれである。 瞬は、氷河の名前が“氷河”という日本語であることの意味を、初めて考えた。 外国人の姿をした氷河が日本の城戸邸にいるのは、彼の中身が、全部ではないにしても日本人だからだったのかもしれない――と。 「え……と、う……うん……」 流暢な氷河の日本語。 対する瞬の答えは、歯切れが悪い。 もともと飛び込むつもりだったのだと、本当のことは言えなかったので、それをごまかすために、瞬はもう一度 『ありがとう』を口にした。 「ありがとう。氷河がいなかったら、僕は きっと死んでいたよ。お堀の水、すごく冷たかったから」 それは本当にそう思う。 もし氷河が自分を助けてくれなかったなら、水の冷たさと 思う通りにならない人生に いじけて、きっと自分は死んでしまっていただろう――と。 反省を兼ねた瞬の『ありがとう』への氷河の答えは、少々 意外なものだった。 「そうかな……。おまえ、不思議な光に包まれて――その光に守られてたぞ」 と、氷河は言ったのだ。 「不思議な光?」 「うん。ピンクと白と金色と薄紫の」 氷河は、あの騒ぎの中で、あの冷たい水の中で、そんな光の色を見極めていたのだろうか。 氷河の余裕に、瞬は 胸中 密かに呆れていた。 「不思議な色の組み合わせだね。虹でも花でもない」 「おまえにも わからないのか……」 瞬の答えが期待外れだったのか、氷河の声は少し抑揚がなくなった。 申し訳ない気持ちになり、瞬は顔と瞼を同時に伏せたのである。 が、氷河は、瞬が光の謎を解けないことに 特段 機嫌を悪くしたわけではなかったらしい。 彼は、彼を睨みつけている瞬の兄を無視することで 逆に瞬の兄の挑むように、瞬との話を続けた。 「おまえが助けようとした、あの女の人。あのあと、病院に運んで検査したら、おなかの中に赤ちゃんがいたんだって。今日 初めて わかったって。俺とおまえに、二つの命を救ってもらったって言ってた。ありがとうって」 「え……」 そんなことがあるのだろうか。 瞬の無謀な計画は、いつのまにか 最初に考えた通りに 成立していたらしい。 こんなことが、本当にあるのか。 人生はもちろん、悲しみに沈んでいる仲間を力付け 励ますための計画ひとつ、思う通りにいかなくて、自分の非力を情けなく思っていたのに、現実は瞬が思っていた以上に 瞬の望み通りだったのだ。 何と言えばいいのかが わからなくて、瞬は息を呑んだ。 そして、これは自分の計画通りに事が運んだのではなく、運命が氷河を救わなければならないと判断したのだろうと、思い直す。 瞬は、そうなのだとしか思えなかった。 いつまでも黙っていると、氷河に奇異に思われるかもしれないと思い、何とか気を取り直す。 |