勉強はとても大切で、勉強できることは とても幸せなこと。 私は皆さんに そう言いました。 事実も その通りです。 知識が増えるということは、喜びや楽しみを知ることです。 けれど、それは、悲しみや苦しみを知ることでもある。 それでも、知らないでいるよりは ずっと幸せですよ。 知らないでいるより 幸せなことですけれど、知ることは つらいことでもあります。 この世界は悲しいことがいっぱい。 世界中に貧困や飢餓や孤独や戦いがあふれていて、瞬の涙は止まらない――大粒の涙を流して 泣くことはなくなりましたけれど、その分 瞬の悲しみは 瞬の心の中で どんどん積み重なり、圧縮され、強く濃いものになって、そうして、瞬の悲しみは終わらないのでした。 長ずるにつれ、瞬は、涙をこぼさなくなった分、より深く 悲しみに打ち沈むようになってしまいました。 氷河が瞬のいるモスコヴィア大公家を訪ねて 最初に口にする挨拶は、『こんにちは』でも『ご機嫌いかが』でもなく、『今日は何が悲しいんだ?』 そのことに気付いてから、瞬は、まるで、自分が悲しみや不幸を招く不吉な人間であるような気がして――自分自身に怯えるようになっていました。 「今日は何が悲しいんだ?」 その日は、その不安が“瞬の悲しいこと”でしたので、瞬は逆に氷河に尋ねたのです。 「どうして氷河は いつも僕の悲しみを消そうとしてくれるの?」 と。 「シベリア公爵家の後を継いだ氷河は、子供の頃とは違って、多分 もう女帝陛下以外に恐れるものはない。その上、若くて 美貌で、健康な身体を持っていて、だから、僕なんかの相手をしている必要はないんだよ。もっと自分の楽しみを追及した方が――」 世界中に悲しみが あふれていて、瞬は その悲しみを少しでも減らしたいと思っているのに、この地上世界に悲しみは増えるばかり。 自分には どんな力もないのだと――瞬はいつも自分を無力で無価値な人間だと思っていました。 そんな無価値な人間のために、氷河が時間と労力を割いてくれることが、瞬は心苦しくてならなかったのです。 実際には 瞬は無力ではなく――この国の都の内にも モスコヴィア大公の領地にも、瞬に命を救われた人間は大勢いましたし、瞬が ほんの少し涙ぐんだり、ちょっと微笑んだりするだけで、氷河だけでなく、モスコヴィア大公である瞬の兄やクリミア公家の星矢、キエフ公家の紫龍、我が国の女帝陛下だって、瞬の望みを叶えるために力を尽くしてくれたのですけれどね。 瞬に『僕に構わず、自分の楽しみを楽しんで』と言われてしまった氷河は、ちょっと困ってしまいました。 まさか、『俺の楽しみは、おまえの涙を消すことだ』なんて恩着せがましいことは、いくら事実でも言えませんから。 実際のところ、それは ただの事実でしかなかったのですけれどね。 恋をしている人間は、恋人のために力を尽くせることが、何より楽しく素晴らしい喜びに感じられるもの。 本来 氷河が享受するはずの喜びや楽しみを 自分が奪っているのではないかと、不安そうな目をしている瞬の髪を撫で、氷河は瞬に逆に問いかけたのです。 「おまえだって、いつも 自分のことではないことにだけ かまけているじゃないか。自分のことではないことで泣いてばかりいる」 「だって、悲しいことが たくさん起こるから……」 「……そうだな」 瞬の言う通り、この世界は悲しみに満ちています。 『どうして俺は 瞬を幸せにしてやれないのか』と、氷河はいつも悔しい思いをしていました。 どうして自分は 瞬を笑顔にしてやれないのだろうと、氷河は――氷河こそが、自分の無力を歯痒く思っていたのです。 瞬がもっと 自分のことで泣く子だったなら。 瞬がもっと お金や綺麗な服や花を喜んで幸せになってくれる子だったなら。 瞬が 自分さえよければいいと考える子だったなら。 瞬を笑顔にすることや 幸せにすることは とても簡単だったのに。 氷河は瞬を 世界でいちばん幸せな人間にしたいと思っているのです。 なのに、瞬が 他人の悲しみや苦しみを我がことのように感じるせいで、世界中の人たちが幸せになったあとでないと、瞬自身は幸せになれないのです。 瞬は、世界でいちばん最後に幸せになる人間――いいえ、最後から2番目に幸せになる人間です。 いちばん最後は、瞬が幸せになったのを見てから やっと幸せになれる氷河でしょう。 「氷河は、とても悲しそう。何か悲しいことがあったの」 悲しそうな瞬が、悲しい氷河に尋ねてきます。 氷河は、胸中で 苦い笑みを作りました。 氷河自身は、瞬さえ幸せでいてくれるなら、瞬以外のすべての人間が悲しんでいても平気なのに、瞬が他人の悲しみを自分の悲しみと感じる人間だから、氷河も悲しくなるのです。 氷河は、自分を かなりの利己主義者だと思っていたので、現状が皮肉に感じられてなりませんでした。 「幸せにしてあげたい人が、幸せでないんだ。多分」 「幸せにしてあげたい人……? 氷河の大事な人なの?」 「誰よりも大事な人だ。俺の命より大事な人。俺にとっては、この世界でいちばん綺麗な姫君だ」 誰のことを言っているか わかってくれることを期待して、氷河は そんなふうに言ってみたのですけれど、結果は残念なものでした。 「氷河の願いが叶うといいね。氷河の大事な お姫様が 誰より幸せになれればいい」 瞬は 悲しげに微笑んで、氷河の幸運を願ってくれました。 瞬は 自己評価が とても低いので、自分が誰かの大事な人だと思ったり、自分のことを世界一綺麗なお姫様だと うぬぼれたりすることはないのです。 そんな言い回しが瞬に通じるとは、最初から思っていなかった氷河は、やはり通じなかったかと 軽く落胆し、瞬に気付かれぬよう、長く力ない溜め息を洩らしたのでした。 |