何かがおかしい。
そして、何かがおかしくなったのは、フレア姫が自分の館に来てから――ではなく、一輝が乗り込んできた あの日から。
氷河は、自分が興味のあることにしか注意を向けない男でしたが、いったん注意を向けると、物事を的確に見通す男でした。
氷河は、瞬に『ここに来るのは、今日を最後にして』と言われた日のうちに、フレア姫とシベリア公に関する噂を把握し、その噂の出どころが 瞬の兄モスコヴィア大公と女帝陛下であることを 突きとめました。
しかも、女帝陛下が フレア姫を氷河の許に預けることにしたのは、瞬の兄の入れ知恵によるものだったのです。

怒髪天を衝いた氷河は、もちろん すぐに瞬の兄のところに怒鳴り込んでいきましたよ。
本当は、瞬の目の前で 一輝を罵倒してやりたかったのですが、瞬は、氷河とフレア姫の噂を悲しんで(と、氷河は決めつけていました)、自室に閉じこもっていたので、まずは一輝とサシで勝負。
「いったい、なぜ こんなことを企んだんだ! 女帝陛下まで巻き込んで!」
今では 世界遺産登録されている我々の国の都の歴史地区の中心モスコヴィア宮殿(当時は、モスコヴィア大公邸と呼ばれていました)が崩れ落ちるのではないかと心配になるくらい大きな声で、氷河は一輝を問い詰めたのです。

一輝の答えは、彼にしては静かな――とても静かなものでした。
彼らしくなく淡々とした口調で、一輝は、
「おまえはお姫様が好きなんだろう」
と、氷河に言った(尋ねた?)のです。
一輝が何のこと――むしろ、誰のこと――を言っているのかがわからず、氷河が否とも応とも答えずにいると、瞬の兄は、今度は ひどく言いにくそうに――できることなら言いたくないというような声音で、
「瞬はお姫様じゃない」
と言いました。
「え?」
「瞬はれっきとした男子だ」
「へ?」

一輝は何を言い出したのだろうと、氷河は思いました。
あんなに綺麗で、優しくて、泣き虫で、可愛くて、華奢で、やわらかくて、温かくて強い瞬が男子――男だなんて。
瞬は、氷河が、この地上世界で ただ一人、『もしかしたら マーマより綺麗かもしれない』と思う人です。
生きている人間の中では 間違いなく 世界一 美しく清らかな人です。
当然、マーマと同じ女性で、それがモスコヴィア大公家の一員なのですから、瞬は 誰もが認める お姫様――のはずでした。

確かに瞬がドレスを着ているところを見たことはありませんでしたが、瞬は 豪華な10万ルーブルのドレスをあつらえるくらいなら、そのお金で貧しい人たちのための病院を建てたいと考えるような子でしたので、氷河は そんなことを気にしたこともなかったのです。
瞬が きんきらきんのドレスを着ないのは 当然のことだとすら、氷河は思っていました。
ですが、瞬がドレスを着ていなかったのは、そういう理由からではなかったのでしょうか。
――なかったようでした。

「瞬は、おまえには、おまえが自分の命より大事に思っている お姫様がいると思っている。おまえが そう言ったそうだな。言うまでもないことだが、瞬は それが自分だとは思っていない。瞬は男子なんだから、それが当然だ。おまえと瞬のために、俺は、『それはアスガルド王家のフレア姫のことだろう』と言っておいた」
『おまえと瞬のために』
モスコヴィア大公は そう言いました。
それは そうですよね。

『氷河は、出会った時から 今までずっと、おまえのことを少女だと思っていたんだ』
なんて、本当のことを知らされたら、瞬は とても深く傷付くでしょう。
『シベリア公は、モスコヴィア大公の弟君に 邪恋を抱いているんですって。公爵は、ソドムの罪で、500年の歴史ある由緒正しいシベリア公爵家を滅ぼすつもりなのかしら』
なんて噂が立ったら、氷河は、ロシア正教の総主教に破門を言い渡されることにだって なりかねません。
(教会に、我が国屈指の大貴族を破門できる度胸があるとは思えませんけれど、一応、教会は その権利は持っていますからね)

『おまえと瞬のために』と、一輝は言います。
実際、そうなのでしょう。
一輝は、彼の最愛の弟と 厄介な幼馴染みのために良かれと思って、こんなことを企てたのでしょう。
けれど、今、氷河は全然 幸せではありませんでしたし、それで助かったと思うこともありませんでした。
事実を知らされた今も、氷河は瞬が好きでしたし、今でも氷河の生き甲斐は 瞬の悲しみを消し去ることでした。
瞬は?
瞬は どうなのでしょう?

氷河の生き甲斐は 瞬を幸福にすることでしたので、すべては 瞬にかかっています。
氷河は、瞬の心を確かめずに、二人のこれからを決めることはできませんでした。
ですから、
「瞬に会ってくる」
と言って、氷河は、瞬の部屋のある2階に続く階段の方に歩き出したのです。
一輝も、それ以上は、氷河に何も言いませんでした。






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