その指輪が氷河の前に姿を現わしたのは、おそらく、氷河がそれを強く求めたからではなかっただろう。 おそらく、氷河が世界の支配者となる運命のもとに生まれた人間だからでもない。 指輪と氷河の間に、何らかの因縁があったからでもない。 ただ、指輪が 気まぐれで 氷河を呼んだのだ。 氷河には そうとしか思えなかった。 冥王の指輪が、この男を世界の支配者にしたいと思った。 この男を、愛を知らぬ男にしてみたいと思った。 この男を、指輪の主にすれば 面白いことが起こると思った。 指輪が、戯れに、悪ふざけで、そう思ったのだ、きっと。 他に理由は(氷河には)考えられなかった。 氷河は、英雄ではなかったから。 権力者や貴種でもなかったから。 氷河は、ギリシャの国にもギリシャの神にも 縁も ゆかりもない、貧しい放浪者にすぎなかったのだから。 世界のすべてを支配する王になる指輪を探し続けて――氷河が ギリシャに足を踏み入れたのは、彼の母の死から10年後のことだった。 ペロポンネソス半島。アカイアの南、アルカディアの西、メッセニアの北、イオニア海の東。 そこに“地の山”と呼ばれる緑濃く険しい山があって、その山は、“誰にも頂を極めることができない山”という評判を取っていた。 さほど高い山ではない。 多くの人間によって踏み固められた道もある。 だが、頂を目指す人間が、その道を上へ上へと登り続けても、いつのまにか 彼は山の反対側の麓に立っている――と言われる不思議な山。 いかなる神が、いかなる目的で そんなことをしているのかは わからなかったが、おそらくは かなり有力な神が、山の頂にある何かを守るために、人間が足を踏み入れることができないようにしているのだろう。 地の山の近隣の者たちは、そう噂していた。 神の所有たるべき支配者の指輪は そういう場所にこそあるのかもしれない――と、氷河は考えた。 氷河でなくても、誰でも、その可能性を考えただろう。 考えてしまったからには、素通りするわけにもいかず、氷河は とりあえず、その山に分け入ってみたのである。 すると、誰も辿り着けないと言われていた頂に、氷河は あっさり辿り着いてしまったのだ。 険しい崖や 神域を守護する魔獣に行く手を遮られることもなく、実に あっさりと。 あまりに簡単に頂に辿り着いてしまったので、氷河は、実は この山は不思議な山でも 神に守られた山でもなく、誰も登ろうとしなかったので 誰も頂に辿り着けないと思われていただけの山だったのではないかと 疑ってしまったのである。 一瞬だけ。 その山の頂には、不思議な山でも 神に守られた山でもないと思ってしまうには あまりに大袈裟で意味ありげなものがあり、実に 大袈裟に意味ありげに 氷河を出迎えてくれたので、氷河の疑念は2秒と継続しなかった。 “地の山”は険しくはあったが 小さな山だったのに――そう見えていたのに――、頂は かなり広い平地になっていて、そこには 濃い緑を したたらせた木々に守られた 美しい白亜の神殿が建っていた。 「……なんだ、これは」 今より千年も前だったなら、こんな神殿を建てる権力者もいただろうが、今時 こんな大理石で こんな神殿を建てる時代錯誤な王や貴族はいない。 ギリシャ国内に入ってから、ギリシャの神を祀った神殿を幾つか見てきたが、それらは いずこの神殿も、過去の栄華を今に伝えるもので、神は もう幾百年も降臨していないに違いないと確信できるような神殿ばかりだった――それらは 遺跡になりかけていた。もしくは、正しく遺跡だった。 だが、この神殿は全く古くない。むしろ 新しい。 まるで、時が神々と人間が交わっていた時代に遡ったように――その神殿は 遺跡ではなかった。 神殿の入り口の両側には、神々の姿を写し取ったとおぼしきレリーフ。 レリーフの脇には、白大理石の壁に花崗岩の石碑が嵌め込まれていて、『我を目覚めさせるな』という文言が刻まれていた。 それは、神々からの警告だったのかもしれないが、往々にして その手のものは、誰からも無視されるようにできている。 なぜ“我”を目覚めさせてはならないのか。 それを知るためには、警句を読んだ者は、警句を無視しなければならない。 そして、大抵の場合、“目覚めさせてはならないもの”は、そんな警告より ずっと魅惑的なのだ。 この山の神殿で眠っているものも そうだった。 傷一つ、汚れ一つない純白の神殿に 氷河が入っていくと、数十本の大理石の柱が並び立つ広間の奥に、大理石の寝台が一つあった。 サテンか薄絹か、行く手を遮る幾枚もの半透明の布幕の向こう。 それらの薄い布を手で払いながら、寝台脇に辿り着くと、白い雲のような寝具の上に、一人の乙女が眠っていた。 白い肌。 華奢な手足。 左右の手は、胸の上で組まれている。 身に着けているのは 純白の短衣のみで、他には サンダルも履いていない。 そんなふうに、簡素この上ない様子をしているのに、細く白い指に――右手の中指に――ひどく重々しい黄金の指輪。 サイズも合っていないが、全く飾り気のない清楚な姿に 黄金の色が――高貴なはずの色が――毒々しくて不釣り合いである。 細い指に、まるで似合っていない黄金の指輪。 見るからに不自然な その指輪は、これは何なのかと氷河が訝る前から、『私は 眠れる乙女のものではない』と、氷河に(あるいは、世界と世界中の人間に対して)主張していた。 いかにも いわくありげに見えるが、これが冥王の指輪なのだろうか。 それとも、いわくはあるが別の指輪なのか。あるいは、いわくありげなだけの、ただの指輪か。 指輪の正体は わからなかったが、その指輪がこの清らかな乙女に悪さをしているのだということを、氷河は根拠もなく確信したのである。 根拠はないが、他に考えられなかったのだ。 死と眠りの神に囚われて、瞼を開けない少女。 死んではいないのに、目覚めない少女。 乙女の清らかさに、全く 似合わない重たげな黄金。 彼女は、この重い指輪の呪いから解放されなければならない。 そうして自由になった彼女は、花の咲き乱れる春の野を駆けて――そして、彼女に ふさわしい、若くたくましい男の胸の中に飛び込んでいかなければならない。 それこそが彼女に最も ふさわしい振舞いだと、氷河は思った。かなり一方的に、決めつけた。 しかし、彼女は生きているのだろうか? 死んで、身体が朽ちていくのを待っているのではないことは わかったが、永遠に目覚めることのない眠りに就いているのなら、それは死んでいないだけで、“生きている”とは言い難い――かもしれない。 血の気が感じられないほど、白い肌。 だが、触れなくても、彼女の身体が温かいことは わかった。 面差しは、端正で清らか。 伏せられたまま、動かない瞼。 氷河が彼女に強く心を動かされたのは、彼女の清らかで可憐な貌も さることながら、その姿が彼の母と重なったからだった。 氷河が母の亡骸を見た時、氷河の母も こんなふうだったのだ。 生きているのか 眠っているだけなのかの判別が難しい、血の気が全く感じられない白い肌――。 彼女を目覚めさせなければならないと、氷河が思ったのは、乙女の姿が 母に重なったから。 目覚めさせずに さっさと指輪だけを奪ってしまえばいいのだろうとは思ったのだが、氷河は彼女の指を縛りつけているような装飾過多の黄金の指輪より、眠れる乙女の方が――彼女の閉じられた瞳の様子の方が気になってならなかった。 彼女に似合わない その指輪が 冥王の指輪なのだとしても、世界への復讐は もともと 氷河にとっては どうしても叶えたい目的ではなかった。 それよりも、今、氷河は、母に重なる清らかな乙女の瞳が見たかった――どうしても見てみたかったのである。 目を開けてくれたら、その瞳は、きっと美しいとわかっているのに目覚めてくれない。 これほど焦れったいこともない。 生きて、目覚めて、微笑みかけてもらえたら、 きっと嬉しい。 立ち上がり 歩いてみせてくれたなら、その花びらのような唇で 自分の名を呼んでくれたなら、その白い腕で、今 彼女の目の前に立つ男の胸に すがりついてきてくれたなら――俺は どれほど幸福な男になれるだろう。 と、氷河は思った。 最初は それなりに遠慮がちに、肩を揺さぶってみた。 が、彼女は目覚めない。 次に、その頬に 指で触れてみた。 血の気がないように見えた頬は、見た目の印象に相違して 温かかった。 氷河の指が触れた部分に、薄く朱の色が浮かんでくる。 しかし、それでも 彼女は目覚めなかった。 生きているのに、目覚めない。 こういう時は、やはり、目覚めを促す口づけ――というのが、定番なのではないだろうか。 それが最も有効なのではないだろうか。 有効か無効かという問題は さておいて、こういう場合の対処方法を、氷河は他に知らなかった。 そして、とにかく、彼女に目覚めてほしい。 そのためになら、どんなことでもする――試してみたい。 『決して やましい気持ちからではないぞ』と、自分に三度ほど言い訳をしてから、氷河は、乙女の唇に自分の唇を重ねた。 やわらかい唇。 氷河が触れると、彼女は、頬だけではなく、その唇にも朱の色を増したように見えた。 「目覚めてくれ」 と言ったのは、あくまで それが目的だと 自分に重ねて言い訳し、かつ、その言い訳を 世界と彼女に伝えるためだったろう。 自分は いったい誰の目を気にしているのだと自嘲し自問しながら、氷河は もう一度、彼女の唇に唇を重ねてみたのである。 邪魔な人間を 視界と行く手から排除するために、殴ったり蹴ったりすることは しばしばしていたが――こんなに優しい気持ちで、人に触れたのは10年振りだった。 こんなに優しい気持ちで、キスをするのも もちろん 10年振りだった。 10年振りの心臓の高鳴り。 マーマへのキスの時より、心臓の鼓動は大きく強く波打っている。 この心臓の音を聞かれてしまったら、彼女に不審人物として怪しまれてしまうかもしれないが、これでもまだ目覚めてくれなかったなら、三度目のキスを――と、氷河が思った時。 まるで氷河の考えを読んだように ぴったりのタイミングで、乙女が ぱちりと目を開けた。 許しを得ずに唇を奪ったこと、大きな心臓の音を聞かれる きまりの悪さ、そのために 不審人物として怪しまれる可能性。 そういったことを すべて、一瞬で、氷河は忘れてしまったのである。 予想通り――否、予想以上に 澄んだ彼女の瞳に出会った衝撃で、氷河の心臓は、うるさく騒ぐのをやめて 止まってしまったのだ。 もちろん、永遠にではなく、数秒間だけ。 その数秒間が、氷河には永遠にも感じられたが。 それくらい、氷河の五感知覚と思考力は、彼女の瞳によって混乱させられたのである。 |