セフェリス家といえばエリティス家、エリティス家といえばセフェリス家。
不仲で有名なセフェリス家とエリティス家は、もともとは 父と母を同じくする兄弟を祖にしていた。
500年ほど前、アテナイやスパルタ、ミュケーナイ、テーバイ等、ギリシャ都市国家の連合軍がトロイア王家を攻めたことがあった。
いわゆるトロイア戦争である。
ギリシャ連合軍は、尤もらしい理由を こじつけてトロイアの地に攻め込んだが、それは難癖にすぎず、ギリシャの真の目的はトロイアを支配下におくこと。トロイアをギリシャの植民地にすることだった。

ギリシャ連合のアテナイ軍の中に、セフェリスとエリティスという兄弟がいた。
兄のセフェリスは、祖国の政府が 祖国の益になると判断して始めた戦いを拒絶することはできないと考え、ギリシャ連合軍の一人として、アテナイ市民の一人として、トロイア軍と戦った。
弟のエリティスは、これは正義の戦いではなく 侵略だと言って、ギリシャ連合軍を脱走し、トロイア王国に味方したのである。

結局トロイア軍は ギリシャ連合軍に敗れ、トロイア王家は滅びることになったのだが、落城の際、トロイアの王プリアモスは、トロイアのために戦ってくれたエリティスの正義と勇気を称え、彼にトロイア王家の宝を分け与えて、トロイアの地から逃げるように言った。
プリアモス王が用意してくれた船で アンティキティラ島に逃れたエリティスは、辿り着いた島で 島民に歓迎され、その地で妻を娶り、アンティキティラ島でしか採れない青真珠で財を築いた。
4代後の子孫が アテナイに戻ってきたのは、人口100人に満たない島では配偶者を求められなかったから――と言われている。

トロイア戦争から100年以上の時が流れている。
アテナイでも、トロイア戦争に正義はなかったという考えを認める流れが出きていたせいもあって、エリティスの子孫のアテナイ帰還は、アテナイ市民に 比較的 好意的に受け入れられた。
青真珠で築いた財がものを言ったところもあったろう。
だが、裏切者エリティスを出したことで、アテナイ国内で政治的に冷遇された時期もあったセフェリスの子孫たちは、同族であるがゆえに、エリティス家との間の わだかまりを埋めることができなかったのである。
わだかまりを埋められずに仲違いしたまま、更に400年が過ぎた。

ある時にはセフェリス家の勢力が勝り、また ある時はエリティス家の勢力が勝り――相対的に 栄枯と盛衰を繰り返しながら、反目し合う二つの家は、現在まで併存してきた。
セフェリス家とエリティス家の対立も いよいよ終わりの時が来たのかと、昨今 巷で取り沙汰されているのは、エリティス家の直系の人間が 令嬢エスメラルダ一人きりになったからだった。

エスメラルダは、アテナイ市民――しかも貴族――の家の女子である。
貴族とはいえ 女子であるからには、エスメラルダには いかなる発言権もなく、表立って行動することはできない。
叔父(実際には、かなり傍系の又々々従兄弟くらいのものらしい)が 彼女の後見につき、現在エリティス家を牛耳っているのは、その男。
彼は、セフェリス家に対抗意識を燃やして、日頃から、セフェリス家への嫌がらせを繰り返している。
彼は、そして、セフェリス家に対抗できるほど有力な家とエリティス家を結びつけるために、エスメラルダの夫となる男を探しているはずだった。

その“はず”なのである。
ところが、誰に白羽の矢が立ったのか、一向に噂の一つも聞こえてこない。
零落しているとはいえ、エスメラルダの婚資は 相当額に上ると考えられていた。
他にエリティス家の資産を継ぐ者がいないのだから、エリティス家の財産はすべてエスメラルダの婚資となる。
アテナイの家屋敷、青真珠の採れるアンティキティラ島の利権。
エスメラルダの婚資は、へたな有力貴族の娘の婚資より はるかに高額なのである。
彼女を妻に迎えたいと望む男は多いはずだった。
エスメラルダの動向一つで、エリティス家が地上世界から消え去ることになるか、逆に 華々しい復興を遂げるのかが決まる。
エスメラルダの婚姻は、セフェリス家にとっても、決して無関心ではいられない重大問題だったのだ。


セフェリス家としては もちろん、不倶戴天の敵は 地上から 綺麗さっぱり消えてくれた方が 安心できる。
その結末を目指して、セフェリス家は動くはず――と、氷河は決めつけているようだった。
それは、大部分のアテナイ市民の見方でもあるのだろう。
瞬にもそれは わかっていたのだが、それでも瞬は、氷河の決めつけに真っ向から異議を唱えた。

「エリティス家を根絶やしにだなんて……違います。僕は――」
「僕は?」
「僕は、エスメラルダさんと仲良くなりたいと思っています」
「ナカヨク……?」
それはどこから出てきた言葉なのかと言うように、瞬が口にした言葉を復唱した氷河の顔が 皮肉げに歪む。

宿命の仇敵同士であるところのセフェリス家とエリティス家。
セフェリス家の令息が、エリティス家の令嬢と仲良くする。
そんな戯れ言が、常識を備えた大人に信じられるわけがない。
常識を備えた大人は、セフェリス家の者はエリティス家の滅亡を願い、仇家が地上世界から完全に消え去ることを願っているに決まっている――と思うのだ。
だから、このタイミングで、
「ナカヨクするのは、とっても いいことダヨ!」
と、嬉しそうな声を 室内に響き渡らせたのは、常識を備えた大人ではなかった。
「セフェリス家の瞬チャン、ナターシャと仲良くしよう!」
「ナターシャちゃん……」

常識を備えた大人である氷河が 依頼人の言葉を全く信じてくれないことに焦れ、同時に悲しくも思っていた瞬には、ナターシャの素直で優しい提案が嬉しかった。
「ナターシャちゃんと仲良くなれたら、僕は、とっても嬉しいな」
「ワーイ!」
万歳をして、ナターシャが喜ぶ。
無邪気で天真爛漫なナターシャの笑顔は、瞬の目と唇に微笑を運んできた。
同時に、それは彼女のパパの顔の歪みも綺麗に矯正した。

「ナターシャ、瞬チャンのこと、マーマって呼んでいい? ナターシャは ずっと、パパに負けないくらい綺麗なマーマが欲しかったんダヨ」
「え? マーマ?」
「パパに負けないくらい綺麗なマーマなんて、きっと世界中 探しても見付からないんだって、ナターシャ、ほんとは諦めかけてたんダヨ。デモ、諦めないでいて よかった! 信じて貫けば、夢は必ず叶うんダヨ。パパの言ってた通りだったヨ!」
パパに負けないくらい綺麗なマーマに出会えたことは もちろんだが、ナターシャは、それ以上に、パパの言葉が嘘でなかったことが嬉しくてならないらしい。

このナターシャに、『僕は男だから、君のマーマにはなれないよ』などという、常識を備えた大人の冷たい言葉を投げつけることは、瞬にはできなかった。
瞬の『エスメラルダさんと仲良くなりたい』を信じてくれない人が、自分の娘には、『信じて貫けば、夢は必ず叶う』などと、常識を備えた大人のそれとも思えない言葉を語っていることも微笑ましくて。
瞬は この父娘に好意を抱かずにはいられなかったのである。

それは、どうやら 氷河の方も同じだったらしい。
ナターシャのマーマになってくれた人の言葉を、彼は 少しは信じてみる気になったようだった。
彼は、エスメラルダを探す仕事を受ける気になってくれたらしい。
「エスメラルダ嬢は今、エリティス家の館にはいないのか」
尋ねてくる氷河に、瞬は頷いた。

「エスメラルダさんには後見人がいるんです。エスメラルダさんの叔父と称していますが、実際には エリティス家の傍系の、エスメラルダさんにとっては 又従兄弟だか又々従兄弟だか、ほとんど他人といっていい人です。最初は、彼がエスメラルダさんを どこかに拉致して隠しているのじゃないかと疑っていたんですが、どうやら 彼もエスメラルダさんの行方を探しているようなんです。エスメラルダさんは、ぼくと大して歳の違わない――こんな言い方は失礼ですが、アテナイ市民の未婚の娘。世間知らずな深窓育ちの令嬢です。僕、心配で……。エスメラルダさんを探してください。お願します」

瞬の『エスメラルダさんと仲良くなりたい』を、氷河は信じてくれたのか、どうか。
それは瞬にも わからなかった。
だが、
「マーマ、大丈夫ダヨ。パパは人探しの名人ダヨ!」
ナターシャが発行してくれた注文請書に、氷河は責任を持ってくれそうだった。






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