前例のない仕事を商売として成り立たせるには、信頼が必要。 信頼を築くには、実績が必要。 実績を重ねるには、努力と才能、そして、運が必要である。 氷河は、人探しの才能――情報収集能力と勘の良さ――に恵まれていた。 本来は勤勉な質ではないのだが、ナターシャを育てるため、今は怠けていられない。 そして 氷河は、どういうわけか、いつも運がよかった。 亡き母が いつも見守ってくれているのだと信じずにいることが不可能なほど、とにかく 運がよかった。 瞬に捜索を依頼されたエリティス家のエスメラルダも、労働者の100日分の賃金相当の手付金を貰っておきながら、依頼された日の3日後には もう、氷河は その居場所を探し当てていた。 世間知らずの貴族の未婚の娘が、人知れず 身を隠せるところなど、男を作って出奔したのでない限り、限られている。 男を作ってアテナイから逃げ出したのだったら(可能性としては、そちらの方が はるかに大きかったのだが)、探し出すのは困難を極めていただろうが、エスメラルダの場合は そうではなかった。 エスメラルダの後見人や瞬が、その場所にエスメラルダがいる可能性に思い至らないのは、彼等がアテナイ市民の男子だからである――奴隷でも女性でもない、(恵まれた)市民の男子だから。 エスメラルダが身を寄せた場所は、アテナイでは人権を認められていない女性たちが 男たちには決して知らせずに運営されている秘密の場所だった。 言ってみれば、女性の駆け込み寺。女性だけの“逃れの町”。 女性のための逃れの町は、アテナイには アテナ神殿とアルテミス神殿の二つがあり、エスメラルダはアテナ神殿の方にいた。 もちろん、そこは男子禁制。 アテナ神殿に潜り込んで、実際にエスメラルダを探し出したのは、氷河ではなくナターシャだった。 男という横暴な生き物には不信感しかない処女神神殿の管理運営者たちも、幼い少女の、 「お姉ちゃんが、ここに逃げるって言って、おうちから いなくなっちゃったノ。ナターシャ、お姉ちゃんに会いたいノ。ナターシャ、お姉ちゃんがいないと寂しくて、恐いノ」 という訴えには疑念を抱くこともなく、ナターシャが神殿内に入ることを許してくれたのだ。 すべてを心得ており、かつ機転も利くナターシャは、首尾よくエスメラルダを見付け出し、彼女を神殿の外に連れ出してのけた。 ナターシャに手を引かれて神殿の敷地の外に姿を現わしたエスメラルダは、見るからに“世間知らずの深窓のお姫様”で、そして、驚くほど造作が瞬に似ていた。 500年前、父母を同じくする兄弟から始まったセフェリス家とエリティス家。 こんな奇跡もあるのだと、氷河は目をみはったのである。 尤も、瞬とエスメラルダは、よくよく見比べてみれば、やはり別人――完全な別人だったが。 顔の色も 瞳の色も違うし、性別も別。 対峙する人間に与える印象も、エスメラルダは“世間知らずの深窓のお姫様”だが、瞬は“鼻につかない程度に機転のよさを備えた、はしこい美少女”。 善良さに隠れて気付きにくいが、瞬は 相当 頭がいい。 顔の造作も、細かく比較すれば、ほぼ違っていた。 二人を見る人間に、二人をそっくりだと感じさせる最大の要因は、二人の瞳が同じように澄み切っていることだったろう。 「パパ、パパ。エスメラルダお姉ちゃんって、優しそうで、マーマに ちょっと似てるヨ。でも、ナターシャのマーマの方が綺麗で お利口ダヨ。パパのタイプは、マーマでショ?」 すべてを心得ているナターシャが、彼女のパパに耳打ちしてくる。 ナターシャは、すべてを心得ているうえに、観察眼も確かだった。 「よく わかるな」 瞬からは法外な手付金を貰ったし、あの金払いの良さからして、このままエスメラルダをセフェリス家に連れていけば、100ドラクマの10倍の成功報酬を もらうこともできそうだとは思う。 だが、ナターシャに協力させたからには、この仕事を、金儲けだけが目的の悪行にはできない。 ナターシャのしたことが、エスメラルダの不幸につながるものであってはならない。 氷河は、そういう考えと姿勢で、この仕事を続けていたので――問答無用で、エスメラルダをセフェリス家に差し出すつもりはなかった。 だから、氷河は、自分が誰に依頼されて エリティス家のエスメラルダを探していたのかを、正直にエスメラルダに告げたのである。 「俺は、エリティス家の仇敵セフェリス家の子息の依頼で、エリティス家の令嬢を探しに来たんだ」 と。 「俺に、君を探すことを依頼してきたセフェリス家の子息の名は瞬という。瞬は 君と仲良くしたいと言っていた。誰がどう考えても嘘だと思うだろうが、俺には 瞬が嘘を言っているようには見えなかったな」 「セフェリス家の瞬……さん……?」 世間知らずの深窓育ちのお姫様は、仇敵の家の子息の名も知らないらしい。 では、エスメラルダの中には、瞬への敵意や憎悪もないだろう。 氷河は なぜか、胸中で安堵の息をついた。 「セフェリス家にも 同じ神託があったのかしら……」 顔を伏せたままで 小さな独り言を呟き、それから エスメラルダは顔を上げ、思いがけず意思的な瞳で 氷河を見上げてきた。 「セフェリス家の瞬さんは 嘘を言っているのではないでしょう。私を探してくださっているのも、好意からのことだと思います。私は、セフェリス家の男子と結婚しなければならなくなってしまいました。でも、他に好きな人がいるので、アテナの神殿に逃げ込んだのです」 「セフェリス家の男子と結婚? 逃げた?」 セフェリス家とエリティス家は仇敵同士ではなかったのか。 仇敵同士だから、その迫害や攻撃から逃げた――というのなら理に適っているが、仇敵同士のセフェリス家とエリティス家で結婚話が持ち上がっているというのが、そもそもおかしい。そんなことがあるだろうか。 事情が理解できず、氷河は エスメラルダに 探りを入れてみた。 「だが、君を探しているセフェリス家の令息は、綺麗で優しくて頭もいいし、財も――」 「だから、好きになるとは限りません」 「まあ、それはそうだ。美貌で好いてもらえるなら、苦労はない」 『瞬が俺になびく気配も、今のところは 全く見えないし』という呟きは、声にはしない。 パパは世界一かっこよくて、世界一 モテると信じているナターシャのため。 そして、エスメラルダを混乱させないため、余計な情報の提供は避けるのが吉。 「私はセフェリス家の人以外とは結婚しないと神に誓いました。その誓いを守るために、ここに逃げ込んだんです」 「……」 知能も理性も備えているように見えるが、それは買いかぶりだろうか。 論理というものを完全に無視しているようなエスメラルダの発言に、氷河は眉をひそめた。 「セフェリス家の男と結婚しなければならなくなった。セフェリス家の者以外の男とは結婚しないと、神に誓った。なら、セフェリス家の男と結婚すればいいだけの話だろう。神への誓いを破らないために、アテナ神殿に逃げ込む必要などない」 瞬とエスメラルダに結婚してほしいわけではない。 あくまで論理上の矛盾を指摘するために、氷河は そう言った。 エスメラルダの返答は、 「私には好きな人がいるんです。もちろん、セフェリス家の人ではありません」 という、実に わかりやすいもの。 それで、氷河の中にあった矛盾は矛盾でなくなった。 エスメラルダには好きな男がいる。 それはセフェリス家の者ではない。 にもかかわらず、エスメラルダはセフェリス家の男子と結婚することを、神に誓ってしまった。 自分の恋を貫けば、神への誓いを破ることになる。 その事態を避けるために、エスメラルダはアテナ神殿に逃げ込んだ――のだ。 「他に好きな男がいるのに、なぜ そんな誓いを……。神に そんな誓いを誓わなければ、何の問題も生じなかったのに」 という氷河の疑念は、市民ではないにしろ、自由民として人権を認められている男だからこそ抱ける疑念だったろう。 そうだったことを、氷河は、自分の意思を持つことを許されないアテナイの少女に教えられることになった。 「私の後見人になっている叔父が、エリティス家の没落を回避するためには どうしたらいいのかと、神に神託を仰いだのです。信託は、『互いを宿敵とする家の者同士の結びつきが、長きに渡る わだかまりを消し去り、両家に繁栄をもたらすだろう』というものでした。それで、私は、エリティス家を守るために、『セフェリス家以外の者とは結婚しない』と、神に誓ったんです――誓わされた」 エスメラルダは、そんな誓いを、誓いたくて誓ったわけではないのだ。 自分の意思で誓ったわけではなく、それがエリティス家の娘の務めだからと、強いられた。 父親と同然の権限を持つ後見人に『誓え』と命じられたら、女子であるエスメラルダに逆らえるわけがない。 「誓いを破るわけにはいきません。私の好きな人は、市民ではない。多分、身分は奴隷です。当然、財もない。神への誓いがなくても、叔父は二人のことを許さなかったでしょう。叔父は、エリティス家の復興だけが生き甲斐のような人で、いつも そればかり言っている……」 そんな男に、『エリティス家復興のために、神に誓え』と鬼気迫る形相で迫られたら、この深窓のお姫様に『否』と言うことができるはずがない。 『そんな誓いを立てなければよかったのに』とエスメラルダを責めることは、一個の人間としての権利を認められている氷河には、一個の人間としての権利を認められているからこそ、氷河にはできなかった。 「神への誓いを違えるわけにはいきません。そんなことをしたら、どんな報いがあるか わかりません。私だけの不運不幸で済むならいいですけど、神の怒りがアテナイの町やギリシャの国にまで及ばないとは限らない。そんな例は、いくらでもある。それくらいなら、恋を諦め、このアテナ神殿で一生 一人で生きていこうと思ったんです。叔父にも顔向けができません」 「なるほど」 エスメラルダの言動に矛盾がないことは理解できた。 “仲良くするため”にエスメラルダを探しているという瞬の言葉も、完全な嘘や ただの綺麗ごとではなかったのだろう。 だが、瞬とエスメラルダ――。 瞬とエスメラルダの二人を知る者として、氷河は、その結びつきを心から歓迎する気にはなれなかったのである。 なれるわけがない。 瞬とエスメラルダ。 この二人が結ばれるのは、あまりに倒錯的。 美少女同士のカップルにしか見えない。 二つの家は、500年間 決して交わることがなかったのだから、二人は これ以上ないほど完全な他人だというのに、なぜ ここまで似ているのか。 二人が結ばれることを 神が禁じているから――としか、氷河には思えなかったのである。 |