「これで、一輝という人を探し出し、『もう会えない』と伝えてほしいんです。私は きっと永遠にアテナ神殿を出ることはない。『私のことは忘れて、幸せになってください』と、『あなたに会えて、私はとても幸せでした』と、一輝に伝えて」
エリティス家の館を出る際に持って出た 唯一の財産だと言って、エスメラルダが、銀の台座に2粒の青真珠をあしらったネックレスを 氷河に手渡し、そう依頼してきたのだ。
これが、飛ぶ鳥を落とす勢いのセフェリス家からの依頼なら、有難く頂戴する。
しかし、零落し滅亡も笑い話でなくなりつつある元名家の、たった一人の生き残りから、最後の財産を奪うわけにはいかない。

氷河は、事ここに至って、だらだらと決着の時を先延ばしにすることをやめる決意をせざるを得なくなったのである。
氷河は、本腰を入れて 事態の収拾に取り掛かることにした。
解決しなければならない問題、成し遂げなければならない仕事は 山積みで、その山を平地にするのは骨の折れる作業になるに違いなかったが。

まず、エスメラルダの恋人 一輝を見付け出し、彼が エスメラルダの愛にふさわしい男かどうかを確認する。
ふさわしくない男だった場合は、エスメラルダに恋を諦めさせ、新しい恋に生きるよう説得。
ふさわしい男だった場合は、エスメラルダの誓いを無効にする方法を考える。

エスメラルダがエリティス家の娘として誓いを立てたのであれば、いっそエスメラルダに その身分を捨てさせる。
いっそ瞬に頼んで、形ばかりだけでも、一輝をセフェリス家の養子にするという手もある。
そして、瞬に、エスメラルダと仲良くなることを諦めさせる。
それでも 瞬に ナターシャと仲良しのままでいてもらう策も講じなければならない。

課題は山積み。
エスメラルダの恋人を探し出すのが第一。
エスメラルダに確認すると、エスメラルダはエリティス家で一輝の訪問を待つばかりで、一輝に関することは その名前しか知らず、実は 市民なのか奴隷なのかすら 聞いていないということだった。
さすがは世間知らずの お姫様。
騙されている感が濃厚だったが、それなら それで解決の道が見えてくる。

とにかく、エスメラルダの恋人を探し出さなければ、話は始まらない。
そう考えた氷河が、重い腰を上げた その日のことだった。
「氷河、エスメラルダさんを見付けていたの? 本当は もう何日も前に? どうして 僕に教えてくれなかったの?」
瞬が悲しそうな目をして 氷河を責めてきたのは。

エスメラルダを見付けられずにいる時には、そのことを責めもしなかったのに、見付かった(ことが わかった)途端、そのことを責められるのは おかしな話である。
おかしな話だと、氷河は思った。
無論、瞬の非難は正当なものだとは思ったが――思うしかなかったが。

結局は受け取らなかったエリティス家の青真珠。
その美しさに魅せられたナターシャが、ついうっかり 綺麗な青い丸い珠のことを、瞬に話してしまったために、人探し屋の企業秘密は外部に洩れてしまったらしい。
それがエリティス家の青真珠だと、瞬は すぐに察したようだった。
「氷河、どうして……」
北の果てから流れてきた異邦人の人探し屋を、瞬はずっと信じてくれていたのだろう。
瞬の澄んだ瞳が、信じていた人の裏切りを悲しんで 涙を帯びている。
瞬を裏切っているつもりが全くなかった氷河は、この間の悪さに、胸中で舌打ちしてしまったのである。
俺は、誰よりも運のいい男のはずだったのに――と。

しかし、やはり氷河は運のいい男だったのである。
氷河は、恐ろしく運のいい男だった。
「エスメラルダには好きな男がいる。おまえ、彼女は諦めろ」
「え?」
何とか この場をごまかして、瞬の涙を消し去らなければと思い、苦し紛れに口にした言葉。
「嘘ではないぞ。一輝という名の男らしい。エスメラルダは意に染まぬ結婚から逃れるために――おそらく奴隷で、当然 財もない その男への恋を全うするために――アテナ神殿に逃げ込んだんだ」
苦し紛れではあるが、紛う方なき事実でもある その言葉が、混迷を極めていた状況を、急転直下で収束に導くことになったのだった。

「え……一輝……?」
「無論、その一輝という男は、俺が必ず探し出す。その男が どの程度 本気なのか、エスメラルダへの気持ちを確かめた上で、エスメラルダの希望を確かめ、それから おまえに すべてを報告するつもりだったんだ。一輝という名前しか わかっていないから、探し出すには、少し 時間がかかるだろうが」
「あの……エスメラルダさんが恋した一輝というのは、多分、僕の兄のことだと思います」
「そう。エスメラルダの恋の相手がセフェリス家の者だったら、すべては丸く収まるんだが……え?」

氷河は 人探しの才能――情報収集能力と勘の良さ――に恵まれていた。
本来は勤勉な(たち)ではないのだが、ナターシャを育てるため、彼女から理想のマーマを奪わないため、自身の恋と幸福のため、今は努力家でもある。
そして 氷河は、どういうわけか、いつも運がよかった。
亡き母が いつも見守ってくれているのだと信じずにいることが不可能なほど、とにかく 運がよかった。
すべての神々と世界が 彼の幸福を望んでいるかのように。
どんな不幸や不運や障害や問題も、彼を幸福にするために生じる。
氷河は、彼自身の存在そのものを“奇跡”と呼んでいいほどに、運のいい男だったのだ。






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