紫龍に招かれてやってきた中華街の料理店。
こんなところにも、あの少年がいた。
姿は無個性。しかし、その視線は 強く激しく挑戦的。
生死も存在もあやふやな、あの少年。
彼は、本当に何者なのか。
到底 友好的とは言い難い 噛みつくような視線を隠す様子もないのは、自分の視線を瞬に感知されていることに、彼が気付いていないからなのだろう。
そういう意味では、彼は 未熟な――闘士としては未熟な――存在だった。

彼の視線には、氷河も気付いているはずである。
だが、何も言わない。
異世界と交わり、冥界と交わり、時間を超えたこともある人間には、どの世界、どの時間に帰属するかわからないような人間など、向こうから積極的に働きかけてくるのでない限り、無視するのが最善。それが 最も面倒のない対応。――というのが、氷河の考えなのだ。

正体不明の少年が あと10歳も若くて、“親”と一緒にいないのが危険なほど幼い子供だったなら、別の意味で氷河は彼に興味を抱いていたかもしれなかったが、氷河や瞬の感性では、15歳を超えた“子供”は もはや“必ず親や大人と一緒にいなければならない子供”ではなかった。
つまり、彼は 気に掛ける必要のない子供、無視していい子供である。
だから、氷河は 彼を無視し続けている。
瞬も、彼に倣った。



「瞬、氷河」
紫龍が案内してくれた個室のテーブルは円形だったが、ターンテーブルはセットされていなかった。
先に来て 席に着いていた星矢が、瞬に手を挙げ、笑顔を投げてくる。
紫龍の取引先でもある中華料理店の店主が、都内に創作中華料理店を出すことを計画中。
その店で提供する予定の料理について、日本人の舌に合うかどうか、忌憚のない意見をもらいたいという要望を受けた紫龍は、その幸運なモルモットとして彼の仲間たちを推薦した。
瞬からは 医師の視点から栄養学的な意見を、氷河からは 料理に合わせる飲み物についてのアドバイスを、星矢からは 主に料理の味と量についての感想をもらえたら、店主は喜ぶだろう。
紫龍は そう言っていたが、彼の説明が どこまで事実なのかは怪しいものだった。
紫龍は、“奢り”を負担に思わせないために、そんな作り話を作ることもしかねない、気配りの人間だったから。

仲間同士が集まって、近況報告をし、氷河を励ますことが この会食の目的だったろう。
物が中華料理では、瞬は、脂肪を減らす方向のアドバイスをすることしかできなかったし、中華料理に最も合う飲み物は、やはり中国の酒やお茶なのだ。
まして、量は多ければ多いほどよく、味は 大抵のものが“美味い”星矢から、有益なアドバイスを引き出せるわけがない。
紫龍の気遣いには、だが、もちろん誰も言及しなかった。

「そう。それで、その女の子は、やっぱり外リンパ瘻で、右耳が聞こえなくなってたの。治療して、今は元の通りに 聞こえるようになったんだけど、その子、ママが優しくなったのは氷河のおかげだと思ってるらしくて、公園で氷河の姿を見付けるたびに 駆け寄ってくるんだよ。小さな女の子って、すごいね。氷河の愛想のなさを恐がる様子もないんだ。あれは、女の勘で、氷河が優しいことを感じ取ってるからなのかもしれない」
「それで、あの子は、会うたび 俺に駆け寄ってくるのか。母親はヒスを起こしてないようなのに、なぜ逃げてくるのかと 不思議に思っていた」

あの少女は、既に 氷河の興味を引く存在ではなくなっていた。
優しい母親に愛されている恵まれた子供は、氷河の愛娘にはなり得ないのだ。
氷河の見当違いなコメントに、瞬が小さく嘆息する。
「あの子は、氷河を優しくて綺麗な王子様だと思って 慕っているのに、慕い甲斐のない王子様だね」

氷河は、他者への愛を惜しむ男ではない。
人を 愛する才能があるし、人に愛される人間でもある。
にもかかわらず、氷河の愛の需要曲線と供給曲線が交わって 均衡点を描くことは、ごく稀。滅多にないことだった。
マーマを愛し、師を愛し、ナターシャを愛し――氷河は人を愛することにかけては、天才と言っていいほどの才能に恵まれている。
にもかかわらず、氷河は、マーマを失い、カミュを失い、ナターシャを失った。
愛の意味と価値を知り、理解し、愛する術も知っている。
なのに なぜ、氷河は愛する対象に恵まれないのか。
氷河ほど、誰かを愛したいという欲求が強く、実際に 愛にあふれている人間はいないのに、彼には その才能を発揮する機会が与えられず、また、その欲求を満たすための場所に恵まれない。
瞬は、それが悲しかった。

「氷河を“優しい”っていうのは違うんじゃないか? 正確には“優しいところもある”だろ。で、そういうムラのある優しさは、優しさっていうより甘さなんだよな」
「俺も星矢の意見に賛成だな。自分が気に入った特定の人間にだけ 特別に優しいのは、ただの依怙贔屓で、ただの甘さだ。氷河は博愛主義者ではない」
星矢と紫龍は優しさと甘さを厳密に区別したいらしい。
彼等は、“優しさ”に ある程度の普遍性を求めているようだった。
氷河を“甘い”と評する彼等の口調は、しかし、咎める者のそれではなかった。
氷河は、そういう男だと 彼等は知っており、認めていたのだ。
当の氷河が、彼等の言葉に頷く。

「俺は、愛する価値のない者を愛したりしない」
仲間たちの言い分を、彼らしくなくクールに肯定する氷河に、
「キビシー」
珍妙なイントネーションで、星矢が応じる。
やはり 責める口調ではなく、ただの事実を語る口調で、星矢は、氷河にとって“愛する価値のある者”を羅列してみせた。
「最高の母親。最高の恋人。最高の娘。氷河自身は最高の息子でも 最高の恋人でも 最高の父親でもないところがみそだな」

瞬の考えと違って、“(最高の)師”が消えるのは、氷河の師が 星矢の評価基準で“最高”ではないからなのだろう。
決して、“(氷河にとって)愛する価値のある者”一覧から除外するわけではない。
「あ、でも、ちゃんと師を乗り越えたんだから、おまえは 弟子としては最高の弟子だったわけだよな。カミュは、おまえを甘い男に育てちまった一級戦犯だから、最高の師匠とはいえないだろうけど。おもしれー。師弟関係でだけ、逆転現象が起きてる」
「星矢……!」

最高の母、最高の師、最高の娘。
氷河の失われた“愛する価値のある者”たちを、氷河をからかう笑い話の材料として使う星矢に、瞬の口中が 強張った(表情には出せないので、見えないところが強張った)。
氷河は いつも通りに無表情。
と思いきや、彼は 薄く笑っていた。
実に珍しいことだが、ちゃんと唇が微笑の形を作っている。
星矢は、氷河に全く気を遣わない。
その無神経、その気遣いのなさが、氷河には かえって 緊張をほぐし、痛みを和らげてくれるものなのかもしれなかった。

「おまえや紫龍は、気を遣いすぎなんだ」
言いながら、卓上にあった紹興酒と烏龍茶で、氷河は 仲間たちのためにドラゴン・ウォーターを作り始めた。
氷の入ったタンブラーに紹興酒と烏龍茶を注いでステアするだけのカクテルだが、氷河と紫龍の分と 星矢と瞬の分とで、酒とお茶の比率が明確に違う。
ドラゴン・ウォーターとは名ばかりの、ほとんど ただの烏龍茶を差し出されて、
「氷河、おまえ、俺を馬鹿にしてんのか?」
と異議を唱えた星矢に、
「俺の気遣いだ」
と、氷河がクールに答える。

「俺に、気なんか遣うなよ! おまえの見当違いな気遣いなんて、ただの嫌がらせにしかならないんだから!」
子供のように大声を上げて怒鳴る星矢を見て、氷河はまた笑った。






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