聖闘士たちの神話






「変な夢を見たの」
目覚めて、身体を起こすと、瞬は氷河に告げた。
ほとんど義務感を抱いて、報告した。
二人は、何か いつもと違うことが起きたなら、それが どんなに些細なことでも、互いに報告し合うことにしていたから。
『でないと、俺たちの毎日は刺激が少なすぎる。退屈すぎて死んでしまうぞ』
と、冗談混じりに氷河に言われたことがある。
『その日の最高の刺激がセックスだなんて事態は避けたいよね』
と瞬が応じると、
『それは結構なことじゃないか』
という答えが返ってきた。

その日の最高最大の刺激がセックス。
それほど平和で平穏な日々が続いていることは、喜ぶべきことなのだろう。
喜んでいいことなのだと思うが、そんな暮らしは誰にも自慢できない。
そんな毎日を連ねて 人生を紡いでいくことを、瞬は、できれば避けたかった。

地上の平和を乱す敵が殲滅され、戦いが絶えて、世界が平和になったわけではない。
戦いは続いており、終わる気配もない。
むしろ、戦いが常態化して、アテナの聖闘士たちは 日々の戦いを刺激として、事件として、試練として、認識できなくなってしまったのだ。
アテナの聖闘士たちの敵が弱くなったわけではない。
無論、冥王ハーデスや彼の従属神たちほど強い敵は滅多に現れないが、アテナの聖闘士が戦わなければならない敵が弱くなったわけでは、決してない。
むしろ アテナの聖闘士たちが強くなってしまったために、瞬たちは 大抵の敵を苦も無く倒すことができるようになってしまったのだ。

終わることのない戦いの日々を刺激と感じることができず、退屈と感じるようになってしまった いちばんの要因が、それだった。
“アテナの聖闘士たちが強くなりすぎた”。
「毎朝 起床して、戦場に出勤するサラリーマンみたいだよね、僕たち。僕は 時々、自分のことを、山の頂に大岩を運び続けるシーシュポスのようだと思うことがあるよ」

アルベール・カミュ著 『シーシュポスの神話』
大胆不敵な策略で神々を欺いたシーシュポスは、暗黒のタンタロスで大きな岩を山頂に押して運ぶ罰を与えられた。
彼は 汗みずくになって大岩を運ぶのだが、山頂まで運び終えたその瞬間に、岩は山頂から麓に向かって転がり落ちてしまう。
山の頂から麓に下り、シーシュポスは 再び 大岩を山の頂へと運ぶ仕事に取りかかる。
その仕事を成し遂げた途端に、またしても 転がり落ちる大岩。
その繰り返し。

人間の人生とは、そんなもの。
どれほど大きな仕事を成し遂げても、そのために どれほどの努力を重ねても、人はいつかは死に、すべては無に帰す。
それが人間の――人類の運命なのである。

「カミュは――俺の師ではなく、アルベール・カミュの方だが、無意味で不条理な仕事の無意味と不条理を自覚し、受け入れているがゆえに、シーシュポスは人生の無意味や不条理を超越していると、主張しているんじゃなかったか」
「ん……」
氷河の口から、『シーシュポスの神話』に関する お手本のような解釈が出てくるのは、氷河自身が、『シーシュポスの神話』の内容を 真剣に考察したことがないからである。
氷河は、それを、大上段に構えて 真剣に考える価値のある問題だと思っていないのだ。

「僕は、毎日の戦いを無意味だとか不条理だとか、そんなふうに思ってはいないよ。僕たちが 戦うことをやめたら、この世界が終わってしまうかもしれないんだから。毎日の戦いを無意味とは思っていない。価値ある行為だと意識し、認め、受け入れてもいるつもり。だけど、アルベール・カミュの言うように、『だから、自分は戦いを超越している存在だ』と思うことはできない。さすがに、そこまで思い上がることはできないよ」
「カミュは――アルベール・カミュは、『自分は不条理を認識している。ゆえに、自分は不条理を超越している』と言う。が、実際のところは、『自分は不条理を認識している。ゆえに、自分は不条理を超越している“と思っている”』だというわけだ」
「『我思う。ゆえに我あり』じゃなく、『我思う。ゆえに我ありと、我思う』だね」

思いがけない哲学談義。
カミュやデカルトを茶化すような結論に苦笑して、瞬は寝台から出ようとしたのである。
上体を起こした瞬を、なぎ倒すようにして、氷河が 寝台の上に引き戻した。






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