「肝心のことを聞いていないぞ。どんな夢だったんだ」
と、氷河が問うてくる。
命の無意味や虚しさ、人生の不条理。人間が その不条理を超越した存在であること。そんなことなど どうでもいいと思っている青い瞳。
『人は、なぜ生きるのか』『何のために生きるのか』と 氷河に問えば、彼からは『愛するために』という答えが 即座に返ってくるだろう。
氷河にとって、重要なことは、愛だけなのだ。
人生の虚しさではなく、人間の生の不条理でもなく。
氷河には、人間という存在の虚無など、それこそ意味がない。

彼は、彼が愛を注いでいる人の心と身体を案じている。
氷河を安心させるまで、瞬は彼から解放してもらえない。
そのことを、瞬は決して忘れていたわけではなかった。
『我思う。ゆえに我ありと、我思う』で、夢の報告が済んだような錯覚を覚えていただけで。
肝心の報告が まだだったことを思い出し、瞬は、剥き出しの肩を すくめた。

「僕が――ハーデスの恰好をした僕が、『この世界は狂っている』と言って、嘆いているんだ。時間が狂ってる、歴史が狂ってる、すべてが狂ってると言って、多分、嘆いてる。彼の世界では、彼の仲間たちは皆 死んでしまったの。彼のせいで、そうなったんだよ。彼は、ハーデスに身体を乗っ取られて、自分の仲間たちを皆、殺してから、ハーデスの力を自分のものとしたまま、正気に戻って――自分自身に戻って――世界を呪ってるんだ」
「仲間が皆 死んだ? 俺もか?」
「うん。ごめんね」
「おまえが謝ることじゃない」
瞬が謝るようなことではないし、謝っても どうにもならない。
それはそうである。
首肯して、瞬は続きを語った。

「そこには、どういうわけか ハーデスがいる。内も外も すっかりハーデスな、正真正銘のハーデスだよ。そのハーデスが、嘆いてる僕に、『では、狂っていない正しい世界とは、どんな世界なのだ』って訊いてくるの」
「実に尤もな疑問と、実に妥当な質問だ」
氷河の口調が素っ気ないのは、夢の中の二人の問答と その内容に、彼は興味を抱いていないから――である。
彼の心と興味は、あくまで夢の話を語っている瞬自身に向かっているのだ。
瞬が、それを承知の上で、夢の話を語るのは、氷河を安心させるため。
同時に、寝台を出るためでもあった。

ハーデスの恰好をして嘆いている瞬は、ハーデスの問いに、自分の仲間たちが死なない世界だと答えた。
そして、その仲間たちによって、地上を死の世界にしようとしている邪神が討たれる世界だ――と。
それが 自分にとっての正しい世界だと告げた瞬を冷ややかに見詰め、ハーデスは、
「それは、そなたにとってだけ正しい世界であろう」
と応じた。
“瞬”にとっては、瞬と瞬の仲間たちが生き延び 勝利する世界が“正しい世界”。
だが、ハーデスにとっては、ハーデスが生き延びている世界の方が正しいに決まっている。
道理だと、二人のやりとりを見ていた瞬は 思っていたのである。

呑気に、そんなことを思っていた。
瞬は、それが夢だと気付いていたのだ。
ハーデスの恰好をした自分と ハーデスが、和気藹々とまでは言えなくても、完全に穏やかに、正しい世界のあり方を語り合っているのである。
そんなことは 現実にあり得ることではなく、となれば それは夢に決まっている。
そう思っていた。

だから、
「そなたにとって、狂っていない世界、正しい世界とは、どういう世界か」
と、ふいに ハーデスに問われて、瞬は驚くことになったのである。
そこに自分が――乙女座の黄金聖闘士が――いるとは思っていなかったから。
瞬は、自分は、どこか離れたところから、二人には気付かれずに二人のやりとりを聞いているのだと思っていたのだ。
だが、瞬は、ちゃんと その場にいて、その存在を彼等に 認識されていたらしい。

問われれば、『これは僕の夢の中でのことだから』と言って、答えずにいることもできない。
瞬は、冥府の王が問うてきた質問への答えを真面目に考え、自分の夢の登場人物であるハーデスに対して、真面目に答えた。
「それは……あなたのように身勝手な神々が振るう理不尽な力のせいで 悲しい目に会う人のいない世界です」
そんな人を一人でも減らしたくて、瞬は 日々の戦いを続けている。
バルゴの瞬にとっては 素晴らしい世界――瞬の大切な人たちと 瞬の見知らぬ大勢の人たちが つつがなく生きている素晴らしい世界――を、神々は なぜか醜悪と感じるらしく、人類殲滅を企てる神々は多かった。
そんな神々の命に従って、アテナの聖闘士たちに挑んでくる戦士たちが皆 人間であることに、瞬は いつも神々の悪意と傲慢を感じていた。

ともかく、瞬は そう答えた。
バルゴの瞬の答えを聞いて、ハーデスが冷笑する。
「余が起こす永遠の日食は 理不尽な力で、正しくないのか? 余の意思とは無関係に、巨大な隕石が地球に衝突して 人間たちを死滅させるのは、理不尽ではなく、正しいのか? そこに神々の意思が働いていないなら、そなたは人類の滅亡を 唯々として受け入れると?」
「……」
ハーデスの揶揄に、瞬は即座に反駁することはできなかった。
ハーデスの存在と 彼の企みを知らない人間たちには、ハーデスが起こそうとしたグレイテスト・エクリップスも、自然が引き起こした脅威でしかなかっただろう。
是も非もない。
“正しくない”とも“理不尽”とも言うことはできない、神の存在を意識していない者たちには、“あれ”は まさに自然な出来事でしかなかったのだ。

正しい世界。
正しい時間。正しい時間の流れ。
狂った世界。
狂ってしまった時間。狂ってしまった時間の流れ。
何を基準にして、何を正しいと判断するか。
何を基準にして、何を狂っていると判断するか。
人間の視点を基準にして考える 人間の正しさと ハーデスの視点を基準にして考えるハーデスの正しさは、おそらく全く違うものだろう。
アカシック・レコード――かくあるべき正しい歴史――があるのでない限り、その正誤は誰にも決められない。
基準となるものがない限り、世界のありようと正しいと判断することも、正しくないと判断することもできない。
ある人間、ある神にとって、理想的に思える世界、間違っていると思いたい世界というものはあるかもしれないが、それは ただそれだけのこと。
それは、彼の主観だけのことなのだ。






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