「変な夢だった……」 なぜ、あんな夢を見たのか わからない。 現状に――変化や刺激の少ない毎日に――自分が疑念を抱いているからなのだろうか。 違うような気がした。 自分の現在を 冗談混じりにサラリーマン聖闘士と呼びながら、日々の戦いの重要さを、瞬は自覚していた。 小さな油断が 世界を破滅に導く。 そもそも刺激が少ないだけで、今の世界は平和とは ほど遠い。 聖闘士が戦うことを続けなければ、多くの人々が不幸になるのだ。 アテナの聖闘士たちは皆、世界の命運に携わる場所に立っていた。 “変な夢”の原因は、夢の中の“瞬”にあるような気がした。 バルゴの瞬ではなく、冥府の王ハーデスでもなく――聖域の聖闘士でもなく、冥界の者でもない、孤独な瞬。 別の世界の誰か――ハーデスの恰好をした異世界の瞬が、彼にとって正しい世界に生きている瞬(ある意味、順当に、乙女座の黄金聖闘士になった瞬)に救いを求めたのではないか――。 瞬は、そんな気がしてならなかったのである。 「ハーデスの力を 我が身に閉じ込めたおまえと、ハーデスと、乙女座の黄金聖闘士の禅問答か。とんでもないメンツだ。絶対に、その場に 居合わせたくない」 とんでもないメンツの一角を成している瞬の前で、当人をからかうように 氷河が笑う。 そうしてから、氷河は少し真顔になった。 「そんな夢を見るのは、ハーデスの力が、おまえの中に残っているからなのではないか?」 「それはないと思うけど」 まだ青銅聖闘士だった瞬たちが 冥界に乗り込んでいったのは、もう10年以上昔のことである。 それから今日のこの日まで、この世界では、一応、ハーデスは滅したことになっている。 「僕、冥界でハーデスに身体を乗っ取られていた時、確かにハーデスの心に触れていたんだよ。でも、いくら 僕が彼の心を変えようとしても、僕はハーデスの心の内を窺い知ることはできなかった。全く虚無――というか、広すぎて、掴みどころがなくて、彼の心は、人間の理解の域を超えていたよ。人間が、海の心や 空の心を理解しようとしても、それは無理なことでしょう? そんな感じだった。ハーデスの心があることはわかるんだけど、僕の知らない言葉で ものを考えているような……。彼の心は 人間の心とは違うものだった。ハーデスも、僕の心に関して 同じだったんじゃないかな。彼は、僕の心を理解しようとはせず、圧し潰し 支配しようとしていただけだったろうけど。僕は、ハーデスが僕の心の中に入り込むことは 全力で拒否したし、ハーデスの何かが 今も かけらでも僕の中に残っているのなら、僕はそれを 必ず排出する」 「おまえがそう言うなら、大丈夫なんだろうが……」 「僕は大丈夫だよ。ただ……」 「ただ?」 「僕に、あんな夢を見せたのは、僕自身の何かじゃなく、ハーデスでもなく、夢の中の もう一人の僕のような気がしてならないの」 「俺を殺してしまった おまえが?」 軽く からかう口調で、氷河が尋ねてくる。 「そうだよ。氷河を殺してしまった僕、兄さんを殺し、紫龍を殺し、星矢を殺し――そのまま、ハーデスの操り人形でいれば、まだ楽だったのに、自分を取り戻してしまった僕」 瞬の答えを聞いて、氷河は軽口を反省した。 「あの僕が、ひどく脆くて、危なげで……彼は、自分が間違った世界にいると信じているんだよ。仲間が みんな死んでしまって、一人だから。仲間たちのためにも、地上世界を守ろうと、必死にハーデスの力を自分の中に抑え込んでるけど、自分の生きている世界は狂った、間違った世界だと思っている。そういう人が、たった一人で、いつまで 正気を保っていられるのかと――」 瞬は、不安でならなかった。 「もしかしたら、僕が彼の夢を見たのは――彼が僕の夢の中に入り込んできたのは、僕が今 生きている世界が、彼にとっての“正しい世界”だからなのかもしれない。僕たちが どんな敵に屈することもなく、勝利し続け、生き延びて、こういう言い方は何だけど、順当に黄金聖闘士になって――僕たちがサラリーマン聖闘士をしている この世界が、彼には 正しい世界、狂っていない世界、理想的な世界ですらあるんだ」 「正しい世界、理想的な世界、ね。俺たちの世界も本当に正しいかどうかは わからんぞ。シェリーの『鎖を解かれたプロメテウス』を知っているか?」 聖域から“出勤”の指示がない。 氷河の仕事は夕方から。 瞬も、今日は準夜勤。 瞬は、とうに起床を諦め、氷河の腕に肩を抱かれていた。 「ゼウスが、テティスと結ばれ、彼女が産んだ息子のデモゴーゴンに神々の王の座を追われる話?」 あらすじが すぐに出てくるのは、瞬が その作品に関して あらすじしか知らないからだった。 脚本形式の作品は、レーゼドラマでも 読み方がわからない。 19世紀前半、英国の詩人 パーシー・ビッシュ・シェリーによって著された劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』 女神テティスは、“父より優れた子供を産む”という予言を受けていた。 人間に火を与えたことを咎められ、ゼウスによって罰せられていたプロメテウスは、その予言をゼウスに知らせなかった。 何も知らずに大神ゼウスはテティスを妻に迎え、プロメテウスの目論み通り、テティスが産んだ自分の息子デモゴーゴンに神々の王の座を奪われる。 「俺たちの世界では、ゼウスはプロメテウスからテティスの運命を知らされ、テディスを妻に迎えることを諦めている。当然、デモゴーゴンに神々の王の座を奪われることもない。ゼウスは神々の王のままだ。だが、もしかしたら プロメテウスの復讐が成って、ゼウスがデモゴーゴンに神々の王の座を追われる世界の方が“正しい”のかもしれない」 「それが“正しい”なら、正しい世界は、今 僕たちが生きている この世界とは全く違った世界になっていただろうね」 「アテナの聖闘士が存在するかどうかも怪しい」 氷河の言う通り、聖闘士の存在も怪しい。 それが“正しい”世界なら。 瞬は 頷くともなく頷いた。 「逆に、俺たちの世界では、北欧の神々はラグナロクを迎え 滅びたが、どこかに 北欧の神々が滅びない世界もあるのかもしれない。そして、実は、その世界の方が“正しい”のかもしれない。そもそも 神々が滅びる神話なんて、その方が尋常じゃない」 「確かに、一神教、二神教なら ともかく、神々の滅びが明言された神話は珍しいよね。多神教の神々は、ほとんどが自然に根差した神たちで、滅びようがないのに」 「俺たち 北欧の神々が滅んだ世界の住人たちは、もし北欧の神々が滅びていない世界を見せられたら、その世界を正しくない世界、狂った世界だと思うだろう。だが、本当にそうか?」 「ん……」 正しい世界、正しい時間、正しい歴史とは何か。 神の望む世界ということか。 多くの人間が望む世界なのか。 あるいは、平和な世界。日々を平和に生きていける世界のことなのか。 世界が狂っているのなら、狂っていない世界は、どういう世界なのか。 問われれば、瞬にも答えは出せないのである。 世界が一つだけなのであれば、“正しい世界”も“狂った世界”もない。 現実が一つあるきりと思うしかないのだが。 正しくなくても、認め、受け入れるしかないのだが。 自らの手で仲間たちの命を奪ってしまった“瞬”。 孤独に生きている夢の中の瞬が、自分の生きている世界は狂っているのだと思いたい気持ちはわかる。 自分も、彼と同じ立場に置かれたら、同じように思うだろう。 『この世界は狂っている』と。 同感できるから、共感できるから――瞬には、夢の中の孤独な瞬を慰撫する言葉を思いつけなかった。 「彼は、彼の生きている世界を正しいと思うことができないんだよ。一人だから」 小さく呟いた瞬に、氷河が尋ねてくる。 「おまえは、どう思うんだ。おまえの考える正しい世界、正しい歴史、正しい時間」 尋ねる氷河に、迷いはないように見えた。 まるで“正しい世界”の基準を知っているかのように。 氷河は、いつも そうだった。 これまで彼が 過ちを犯さずに生きてきたわけではないのに、むしろ、過ちと その過ちに伴う後悔は 瞬より多く経験しているはずなのに、なぜか いつも瞬より氷河の方が迷っていない。 対照的に、瞬は いつも迷ってばかりだった。 「僕には わからないよ。正しい世界はもちろん、狂った世界が どんな世界のことを言うのかということすら。様々の無数の選択を辿って、今の僕たちの世界がある。“正しい”も“狂っている”も“間違っている”もない。僕たちは、結局、その時の自分にとって“正しい”と思えることをしか選択できない。それが正しいか、間違っているのかは、僕自身には判断できない。もしかしたら、誰にも」 瞬は、瞬なりに真摯に考え、答えたつもりだったのに、その答えへの氷河の反応は、少し皮肉めいた薄笑いだった。 「慎重派のおまえらしい。誤答を書いて、0点を取るようなことはしない。正答を知らなくても、80点は確保」 どういう聞き方をしても、氷河は 瞬の回答を褒めていない。 氷河の褒めていない褒め方を、瞬が不快に感じないのは、たとえ80点が100点でも、氷河は同じような評価を下すことがわかっているからだった。 氷河の称賛を得ようと思ったら、その人間は、0点か120点の回答を提出しなければならないのだ。 「80点の僕に、氷河の答えを拝聴させてほしいな」 0点の答えが返ってくるだろうことを予感しつつ、瞬は氷河に水を向けた。 0点でも、それは迷いのない氷河を作っている有益な答え。聞く価値があるのだ。 氷河が、瞬の髪に、すべての指を絡めてくる。 |