「俺は 元はヒュペルボレイオスに生まれた人間だ。俺には、海神ポセイドンに仕える戦士の幼馴染みの友人がいて――いや、元友人と言うべきか。長じて 仕える神が違ってしまったからな。俺はポセイドンではなく、女神アテナの聖闘士だ」
氷河が彼の身の上を 瞬に語り始めたのは、自称英雄の乱入によって、人生には いつ何が起こるかわからないという事実に気付いたからだったのかもしれない。
当事者である瞬が 何も知らされないまま、この状況を生んだ張本人が命を落とすようなことも、普通にあり得る。
そうなることを、氷河は恐れたのかもしれなかった。

「アテナの聖闘士?」
知恵と戦いの女神アテナが、地上の平和を守るための闘士を育成していることは、瞬も知っていた。
瞬の兄が まだ王子だった頃、アテナの統べる聖域に行って、アテナの聖闘士として認められた証として、鳳凰座の聖衣を授かってきていた。
兄は 反対していたが、いずれ 自分もと、瞬は思っていたのである。
では、氷河も、地上の平和を願う志ある人間の若者だったのだ。
それがなぜ 白鳥になってしまったのか。
氷河は、その経緯を瞬に語ろうとしているようだった。

「その元友人が、ポセイドンの七将軍位の一つ、クラーケンの鱗衣を与えられることになった。そいつが、ボセイドンから出撃の命令を受けたそうなんだ。一ヶ月後にエティオピアの浜で暴れることになるだろうから、準備しておけと言われた。エティオピアの国王が、神を怒らせる大罪を犯すことになるらしい。そして、その怒りを静めるため、王家から生贄を出すことになる。その生贄を血祭に上げるのが、七将軍に就任した元友人の最初の務め。どちらかと言えば、エティオピア王が生贄を出すのを拒んでくれた方が、思い切り 暴れられるから、その方がいい。そんなことを、ポセイドンの七将軍に取り立てられたあいつは、いつまで経っても下っ端の青銅聖闘士である俺に、得意げに語ってくれた」
「兄さんが神を怒らせる大罪を――」
秘匿事項らしく、はっきりと知らされたわけではないが、瞬は その話を兄から漏れ聞いたことがあった。
半年ほど前である。

「クラーケンがエティオピアの浜で暴れたら、奴は エティオピアに甚大な被害をもたらすことになるだろう。生贄を血祭にあげるというのも物騒な話だ。俺は、エティオピア王が 神の怒りを買うようなことをしなければ、それが最善と考えて、王の許に忠告に行ったんだ。そういう話を聞いたから、心当たりがあるようなら、言動を慎重にするようにと」
「氷河が、兄さんに……」
「もちろん、出さなくていい被害を出さないためだった。エティオピアの国王がアテナの聖闘士だということも知っていたから、そのよしみというのもあった。だが、俺が エティオピア王への忠告に及んだ理由の半分は、クラーケンの自慢げな顔が気に入らなかったからで、決して義侠心や親切心からではなかったんだ」

半年前、アテナに仕えている男が、兄王の許に 言動を慎重にするよう忠告に来た。
その頃、瞬の兄は、エティオピアの都に万神殿(パンテオン)を建築中で、ファサードの土台部分に 海の女神たちネーレイデスのレリーフを彫らせていた。
そして、その土台の上に、瞬をモデルにした像を置く予定になっていたのだ。
「瞬の方が、ネーレイデスより美しいに決まっているんだから」
と軽口を叩きながら、ごく軽い気持ちで、そういう建築計画を立てていたのだ。
氷河の忠告を()れて、瞬の兄は その計画を取りやめ、エティオピアは事無きを得た――と、瞬は聞いていた。

「あの知らせを届けてくれたのが氷河だったの……」
おおよその話は聞いていたが、瞬は、その件に関して、兄に説明を求めたことはなかった。
兄にはエスメラルダという婚約者がおり、その婚約者の姿が 瞬に酷似していた。
兄が、『瞬が、ネーレイデスより美しい』と言ったのが事実なら、なぜ婚約者であるエスメラルダを例えに出さなかったのかという問題が生じ、実は『エスメラルダの方が、ネーレイデスより美しい』と言った(もしくは、真意がそうだった)のだとしたら、神への不敬の当事者がエスメラルダということになって、彼女に災いが及ぶかもしれない。
せっかく未遂に終わったのだから、すべてを曖昧なままにしておくのが安全と、瞬は考えたのだ。
それは 事実が判明しても、誰にも益のないことだったから。

一方、半年前、瞬の兄から、彼が犯しそうになっていた“神を怒らせる大罪”の内容を聞いた氷河は、エティオピア王に大罪を犯させるところだった“ネーレイデスより美しい人”に興味を抱き、ぜひ その姿を見たいと思った。
瞬の兄は、噂の人物との対面を許可してくれなかったが、氷河を王に取り次いでくれた侍女の一人が、離れたところから盗み見るだけならと言って、氷河を王城の中庭に案内してくれた。
おそらく彼女も エティオピア王同様、自国の王子はネーレイデスより美しいと 胸中密かに思い、他国の人間に自慢したかったのだろう。

実際、その人はネーレイデスより美しかった。
氷河は ネーレイデスの姿など見たことがなかったが、それでも瞬はネーレイデスより美しいと 一瞬で確信し――つまり、氷河は恋に落ちたのだ。
瞬の美しい瞳、優しい微笑み。
エティオピア王への忠告を済ませ、エティオピア王城を出てからも、氷河は聖域に帰らなかった。
瞬の面影を脳裏から消し去ることができず、エティオピアの都を出ることができなかったのである。
「おまえへの思いを振り切って 聖域に戻っていれば、アテナの結界に守られて、人間の姿を奪われることには ならなかったかもしれないが――」
そう言って、自嘲するように、氷河が横を向く。

世界の運命を変えたというので、氷河はゼウスによって白鳥に変えられてしまった。
人間としての手足を失い、その代わりに 翼を得た氷河は、エティオピアの王城の庭に自由に飛び下りることができるようになり、瞬の兄の許可を得ずとも、触れ合えるほど瞬に近付くこともできるようになった
白鳥として瞬の許に通い詰めているうちに、どうしても離れ難くなり、氷河は、ある日 ついに、自分の背に乗ってくれと、瞬に懇願してしまった。
そして、瞬を この島に 連れてきた――。

なぜ そんな無謀に及んでしまったのか、自分でも よくわからないと、氷河は言った。
人間としての肉体を失ったことに 自棄になったのか。
逆に、恋した人の側に自由に行けるようになって、浮かれてしまったせいだったのか。
そうしようと思えば、いつでも瞬を故国に戻すことはできるのだから、せめて今だけ。あと もう少しだけ、二人で。
――という、迂闊と油断と甘えがあったのは事実だ――と、氷河は言った。
そう告げる氷河の声には、苦渋と後悔をたたえられていて、瞬は彼の後悔が切なかった。

「僕は、この島で ずっと氷河と一緒にいる。僕の国を救うために、氷河は白鳥にされ、僕のせいで、氷河は飛べなくなってしまった。僕にとっては、さっきの人なんかより、氷河こそが英雄なんだから」
氷河は、エティオピアの国を救ってくれた。
その結果が現在だというのなら、瞬は氷河に感謝こそすれ、恨む気持ちなど抱きようもなかったのだ。
瞬の その気持ちが、だが、氷河には わからないようだった。

「俺は英雄などではない。英雄どころか、おまえを不幸にしてしまった」
「そんなことはないよ。僕は 不幸なんかじゃない。僕を不幸だと決めつける権利は、氷河にもないよ」
瞬は心を込め 言葉を尽くして 氷河を説得したのだが、氷河は、後悔の気持ちが大きくなりすぎて、瞬への恋心すら忘れてしまったようだった。
氷河は、最後には、
「スワンソング――白鳥の最期の歌は神に届くと言われている。そのナイフで、俺の心臓を突いてくれ。俺は、最期に、おまえが故国に帰れるよう、神に祈ろう」
などという無茶を言い出した。

自分の命を奪ってくれと言って 氷河が持ち出したナイフは、落雷と帯電が恐いから無理をして手に入れなくてもいいと 瞬は言ったのに、氷河が危険を冒して 陸地から運んできたもので、石器を作れるような硬い岩のないアンドロメダ島では、瞬たちが有する唯一の刃物だった。
「そんなことできるわけないでしょう」
テントの奥からナイフを咥えて 瞬の許に戻ってきた氷河は、怯えた目をして 後ずさる瞬の手に、そのナイフを押しつけてくる。
「突いてくれ。俺を殺してくれ。でないと、俺は死んでも死にきれない。俺は馬鹿だ。おまえを手に入れることより、おまえの幸せを守ることの方がずっと大事なことだったのに、俺は自分の心にばかり目を向けて、自分より大事な おまえを見ていなかった。死は、そんな俺への当然の報いだ」
「いやだよ。死が当然の報いだなんて、そんなこと あるはずがない。いやだよ!」
「瞬、頼む。俺に、おまえへの愛の証を示させてくれ! 今度こそ……今度こそ……!」

毎夜 一緒に眠って、毎日 一緒に海に出て食べ物を集め、怪我をした時には眠らず看病をして――そんな氷河を、たとえ自分が生き延びるためでも、たとえ生物としての種類が違っていても、その命を奪うことができるものだろうか。
それができる人間もいるかもしれず、もしかしたら それが自然の摂理なのかもしれないが、だとしたら、瞬は自然の摂理に反した人間だった。
これから自分が どんな悲惨な目に遭うかもしれず、遠からず死ぬことになるのだとしても、自分の命や幸福のために、氷河の命を奪うことは 瞬には絶対にできなかった。

「氷河の愛の証は、命ある限り、僕と一緒にいてくれることだよ。そして、僕の愛の証は――」
言うなり、瞬は、それまで受け取ることを固辞していたナイフを その手に取り、一瞬のためらいもなく、それを海の中に投じたのである。
「馬鹿な……!」
瞬の投じたナイフを取り戻すために海中に入ろうとした氷河を、瞬は止めた。
海に向かう氷河の前に立ちはだかって。

いつも穏やかで優しげ。
事実、優しい。
許可どころか説明もなく絶海の孤島に連れてこられたというのに、立腹した様子も見せず、島での不自由な暮らしにも文句一つ言わずに 氷河の望みを叶え 受け入れていた瞬の、初めての反抗。
瞬が 初めて見せる激しさ。
氷河の行く手を阻む瞬の眼差しは、どんな英雄や豪傑より力強く、断固としたものだった。
海に向かおうとしていた氷河の足が怯み、動けなくなるほど。

「やめて。氷河、ずっと僕と一緒にいて。今更 こんなことをするくらいなら、最初から……最初から……」
「瞬……」
瞬の言う通りである。
今更 正気に戻るくらいなら、最初に恋の情熱に かられた時にこそ、氷河は自分を抑えるべきだった。
それをさせてくれないのが、恋というものなのだとしても。

「瞬、すまん……」
今、瞬の瞳には 恋の情熱と 自制の念が同居して、熱く冷静に、そして 優しく、氷河の瞳を――悔いだらけの氷河の瞳を見詰めていた。
自分もこんなふうに恋すればよかったと、瞬の強さと美しさに感動しながら、氷河は思ったのである。

「その時が来たら、この島で死ねばいいよ。二人で、一緒に」
「瞬……」
瞬が 氷河の首筋に しがみつき、抱きしめる。
これまで瞬を すっぽり包み込むことができていた氷河の翼は、今は左半分が欠けてしまっている。
今こそ、これまでの どんな時よりも大きく強い情熱を持って瞬を抱きしめてやりたいのに、そうすることができない。
悔いと口惜しさで、氷河が泣いてしまいそうになった時だった。

「あー。すごく盛り上がってるところを 邪魔して申し訳ないのだけれど、死ぬのはちょっと待ってちょうだい。事情を聞いたら、あなた方 二人共、死んでたまるかっていう気になるから」
という、妙に緊張感を欠いた声が、愛のために死ぬ覚悟を決めた二人の上に降ってきたのは。






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