妙に緊張感を欠いた声。
瞬と氷河が そう感じたのは、実際に その声が緊張感を欠いていたからで、氷河と瞬の判断力に問題があったからでも、二人の中に神への不敬の意図があったわけでもない。
現に氷河は、その“妙に緊張感を欠いた声”の主が何者であるのかに気付くと、全身を敬意と畏れで緊張させまくったのだった。

「アテナ!」
その“妙に緊張感を欠いた声”の主は、畏れ多くも知恵と戦いの女神。
オリュンポス12神の1柱。
大神と呼ばれるゼウス、ポセイドン、ハーデスに次ぐ実力者。
ある意味、無能の極みである大神たちより有能で偉大な女神アテナその人だったのだ。
「アテナ……?」
氷河が口にした名に、瞬が――瞬もまた驚き、心身を(遅ればせながら)緊張させる。
その瞬の隣りで、氷河は、アテナに仕える者として、彼女への謝罪を始めた。

「アテナ。申し訳ありません。俺は、世界の平和を守るために あなたの聖闘士になったのに……」
「ええ、本当ね。でも、私の聖闘士は誰もが 心を持った人間だから、こんなことは今までにも よくあったのよ。気にしなくていいわ。そんなことより――」
仮にも地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士が 恋のために職務を放棄するという 懲戒解雇レベルの大問題を、アテナは、“こんなこと”“そんなこと”で片付けてしまった。
片付けて、彼女にとっての大問題を語り始める。

大問題だが 低レベル。
彼女は、その低レベルな話を 自分の聖闘士に語らなければならない自分を、情けなく思っているようだった。
確かに それは、人間である氷河と瞬が聞いても、実に情けない話だったのであるが。

「実は、今度のことは、ゼウスの浮気癖が元凶なの。さっきのペルセウスは、ゼウスの隠し子なのよ。でも、正妻ヘラの手前、ゼウスは、大っぴらにペルセウスに 大神の息子としての特権や栄誉を与えるわけにはいかない。かといって、仮にも大神ゼウスの息子を、そこいらの青年と同じように市井の中に埋もれさせるわけにもいかない。だから、ゼウスは、養育費代わりに、息子に英雄の称号を与えることを考えたのね。エティオピアの国難を救った英雄という称号を武器に、世渡りをしてほしいと。その予定を、氷河、あなたが狂わせてしまった。で、ゼウスは、怒りに任せて、あなたを白鳥にしてしまったわけ」
「は」

『死んでたまるかっていう気になるから』というアテナの予言は、現実のものとなった。
氷河は、確かに、死んでたまるかという気になった。
生きていることも、少し 嫌になったが。

「本当は、瞬の兄が不敬の罪を犯し、その罰として、エティオピア王は 瞬をクラーケンの生贄に差し出すことになるはずだったの。それを ペルセウスが退治して、英雄として名を上げるはずだった。多くの観客のいるエティオピアの浜で、大スペクタクルが展開されるはずだったのよ。そのために、ゼウスは、ポセイドンにクラーケンの出動を要請し、私の盾やヘルメスの飛行サンダルをペルセウスに貸し出すように言ってきた。呆れた親馬鹿振りでしょ。あげく、飛行サンダルがあれば不要のはずなのに、カッコつけのためにペガサスまで駆り出して――。天馬の扱いがなっていないって、さっき ペガサスが 私のところに文句を言いに来たわ。ペガサスは、エティオピアの姫君が きっぱり盛大にペルセウスを振ってくれたと、あなたを大絶賛していたわよ、瞬」

そう言うアテナも、ペルセウス英雄化計画の頓挫と失恋(?)を、大いに喜んでいるようだった。
相変わらず 緊張感は欠いていたが、ペルセウスの英雄化計画失敗を語るアテナの声は、明るく弾んでいる。
「せめて、この島から瞬を連れ帰ることができたなら、誘拐犯を倒して瞬を救出したと主張して、英雄の末席に名を連ねることもできたでしょうけど、あなたの拒否に会って、それも叶わず。まあ、親の七光りで英雄になれてしまったら、それは当人のためにもならないから、これが最善の結末だったと、私は思っているのだけれどね」

アテナも大神ゼウスの娘。
血筋では、これ以上を望むべくもない最高のものを受け継いでいるのだが、彼女の現在の地位と栄誉は、親の七光によるものではなく、彼女が彼女自身の力と才覚で築いたもの。
そういう自負があるのだろう。
異母弟ということになるペルセウスに、アテナはかなり辛辣だった。
が、それも彼女なりの愛なのかもしれない。
彼女は厳しいだけの神ではないのだ。
彼女が厳しいだけの神であったなら、多くの青少年が 彼女の聖闘士になることを願って聖域を目指すはずがない。

実際 彼女は、彼女の聖闘士として致命的な過ちを犯してしまった氷河に対して、驚くほど寛容だった。
彼女は、アテナに過酷な罰を科されることも覚悟している氷河に、
「この手柄に免じて、氷河は元の姿に戻してあげましょう。腕に少し傷は残るけれど、生きていくのに支障はないはず。その後、どうするのかは自分で決めなさい。聖域は、いつでもあなたを――あなた方を歓迎し、受け入れます。必要なら、一輝の説得も 私がしてあげるわよ」
と言ってくれたのだ。
「しかし、それではアテナがゼウスに――」
「大丈夫。ゼウスは、ヘラの手前、何もできないわ。ペルセウスも、事実を吹聴してまわるほど恥知らずではないでしょう。大神ゼウスの息子が、私の聖闘士のせいで英雄になり損ねたなんて、愉快なのにも ほどがあるわ」

アテナは、どこまでも、あくまでも、徹頭徹尾、緊張感を欠いていた。
ペルセウスの失敗と父神ゼウスの失策を楽しんでいるようでもあった。
それは、だが、おそらく 氷河が自らの過ちの重さ、大きさに押し潰されてしまわないようにするための心遣いなのだ。
――そうなのだと思うことにしたのである。氷河と瞬は。






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