そういう時、楽しかった日々を取り戻すには、そのための“努力”をしなければならない。
ただ ぼんやり待っているだけでは、望みは叶わない。欲しいものは手に入らない。
欲しいものがあったなら、何らかの行動に出て、試練を乗り越えなければならないのだということを、ナターシャは知っていた。
欲しいものがあったなら、人はそれを手に入れるために努力をしなければならないと、ナターシャは パパから教えられていたのだ。

「俺は、瞬を手に入れるために、毎日 瞬に『好きだ』と言って、俺を好きになってもらえたら嬉しいと、丁重に頼み続けたんだ。瞬には、そのたび、冗談はやめろと素っ気なく あしらわれた。何年も何年もだぞ。きっと10万回くらい、俺は瞬に『好きだ』と言ったろうな。幾度か挫けそうになったが、俺は諦めなかった。俺は瞬が好きで、瞬より好きになれる人がいないことが わかっていたからだ」
「パパ、すごくすごく頑張ったんダネ。パパ、エラかったんダネ」
10万回というのが どれほど膨大な数なのかは よくわからなかったのだが、パパが決してマーマを諦めずに頑張ってくれたから、自分の今の楽しく幸せな日々があるのだということは、ナターシャにも わかった。
自分の夢を叶えるために、どんな困難にも挫けることなく努力を続けたパパを、とても立派だと思った。

桃太郎やシンデレラ姫も、恐い鬼を退治したり、ママハハやお姉さんたちに意地悪をされても、灰まみれになって お掃除を頑張ったから、幸せになれたのだ。
欲しいものは努力して手に入れなければならない。
その努力を怠るつもりは、ナターシャには毫もなかった。
どんな試練にも立ち向かうつもりだった。

だが、ここに問題が一つ。
ナターシャは、その努力を、どこで どんなふうに行えばいいのかが わからなかったのである。
乗り越えなければならない試練や困難は、どこにあるのか。
パパとマーマのところに帰るためには、どうすればいいのか。
ナターシャは、まず そこから つきとめなければならなかったのだ。
だが、どうやって?

ナターシャが、パパとマーマとの幸せな日々や世界を取り戻すと決めた時、そのためになら どんな試練も乗り越えてみせると決意した時、灰色の空気以外に何もないと思っていた世界に、ふいに不思議な声が響いてきた。
「大変大変、遅刻だにゃん。遅刻したら、怒られるにゃん」
それは、ナターシャが見慣れたものとは違う色の聖衣を身につけた男の子か女の子か猫だった。

にゃんにゃん言っているので猫なのかと思ったのだが、聖衣に似た鎧を身にまとっているところを見ると、悪者なのか正義の味方なのかは わからないが、聖闘士か それに類する者なのだろう。
もし悪者だったとしても、少しも恐そうに見えない。
灰色の空気しかない灰色の世界に たった一人でいるのが嫌だったナターシャは、その敵か味方か悪者か正義の味方なのか わからない人の あとを追いかけることにしたのだった。

「待って!」
一歩 踏み出した途端、周囲の光景が一変する。
気付くと、ナターシャは音もなく流れる広い広い川のほとりに立っていた。
その岸に、大人が10人ほど乗れるくらいの大きさの舟があり、大勢の人が その舟に乗ろうとして、渡し守の男に 取りついている。
「金のない奴は乗せてやれないつってるだろ! 金のない奴は、永遠に この川岸で ふらふらしてるしかないんだよ!」
いつのまにか、ナターシャが見慣れたものとは違う色の聖衣を身につけた男の子か女の子か猫の姿は消えて、今度 現れたのは、少し口の曲がったおじさんだった。
舟に乗ろうとして 群がっている人たちを、オールを振り回して 岸に突き飛ばしている。
岸に突き飛ばされた人たちは、痛みを感じていないらしく、すぐにまた ゆらゆら揺れる風船のように、口の曲がったおじさんの舟に向かって行進を始めるのだった。

「舟に乗って冥界に行ったところで、何か楽しいことがあるわけでもないのに」
舟に乗ろうとする人たちと 舟に乗せまいとする船頭。
いつまで経っても終わりそうにない乗船争い。
いつまで待っても、出発できそうにない舟。
その様子を ぽかんと眺めていたナターシャの背後から聞こえてきた呟き。
それは、最初から舟に乗ることを諦めて 川岸に座り込み、ほとんど石像と化してしまった者たちの中の誰かが洩らした嘆声のようだった。

「メイカイ……?」
その呟きが、川岸のどの石像の口から洩れたものなのかは わからなかったが、その声のおかげで、ナターシャは、自分が今どこにいるのかを知ることができたのである。
パパやマーマ、星矢お兄ちゃんや 紫龍おじちゃん、デスマスク。
冥界に行ったことのある人たちから、ナターシャは、そこがどういう場所なのかという情報を、かなり断片的にではあったが聞いていたのだ。
『もっと メイカイのお話を聞かせて』と おねだりをしても、どういうわけかパパたちは ごにょごにょと口ごもって、積極的に冥界でのことを教えてはくれなかったので、ナターシャは 桃太郎やシンデレラ姫の話ほど 正確にそのストーリーを把握しているわけではなかったが。
それでも、ナターシャは、重要ポイントは ちゃんと押さえていた。

冥界は、死んだ人が行くところ。
冥界の川を渡ることができるのは、特別な許可を得た者を除けば、死んだ人間だけ。
いいことも悪いこともしていない人間(幼くして命を落とした大多数の子供たちや、毎日ごろごろ家で寝ているだけだった大人たち)は、川を渡ることもできない。
川を渡って冥界に入ることができても、裁判をする場所や 狂暴な地獄の番犬のいる場所等、ダンジョンやイベントが幾つも存在する。
すべてを乗り越えた先には エリシオンの花園があり、そこにいるラスボスは 強大な力を持つハーデスという名の神。
ハーデスは、世界を真っ暗闇にすることもできる恐ろしい神だが、生と死を司る神でもあるので、死んだ者を生き返らせる力も持っている。
好みのタイプは、ナターシャのマーマ。

冥界について、ナターシャが知っている情報はそれだけだったが、それだけ知っていれば十分だった。
それだけで、ナターシャには、自分がしなければならない努力と、自分が乗り越えなければならない内容が わかったから。

ナターシャがいた灰色の世界は、おそらく、冥界の入り口手前の待合室ならぬ待合世界。
死んだのか死んでいないのかが はっきりしない者や、生きている時に いいことも悪いこともしていないので、地獄に行く権利も楽園に行く権利もないものたちが漂っている世界だったのだろう。
もしかしたら、冥界も、ナターシャの生死と正邪を判断できず、対応に苦慮しているのかもしれなかった。

「ナターシャは、パパとマーマのところに帰してくださいって、強い神様のハーデスに お願いしにいくヨ!」
それが、ナターシャのゴールにして目標。
そのために、ナターシャは努力する。
どんな試練も乗り越える。
自分のすべきことがわかったナターシャは、早速 その“努力”に取り掛かったのである。
攻略本は、完全とは言い難いものだったが、一応 ナターシャの頭の中にあった。






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