「おじちゃん! カロンおじちゃん!」 『冥界の渡し守カロンは、滅茶苦茶がめつくてさ。瞬みたいな清純派に弱いんだ。逆に、俺みたいに元気なイイコは好きじゃないみたいだったなー』 と、ナターシャは星矢から聞いていた。 マーマならどうするだろうと考えたナターシャが辿り着いた答えは、“丁寧にお願いする”。 それなら ナターシャにもできる。 というより、ナターシャには それしかできなかった。 自分にできることをすればいいだけ。 ナターシャは、唇を引き結んで、早速“努力”に取り掛かったのである。 その努力の先に、パパとマーマとの幸せな日々があると信じて。 「俺様の名前を気安く呼ぶのは、どこのどいつだ !? 」 人から名を呼ばれることが滅多にないのだろう。 カロンは、ナターシャの指名の声を聞くと すぐに逆指名してくれた。 ナターシャが、 「ハーイ!」 と返事をして手を挙げると、カロンの舟に群がっていた亡者たちは、ナターシャのために道をあけてくれた。 “できることをするだけ”では攻略にも何にもならないと思っていたのだが、この場においては、カロンの名を知っているということが 有利に働いたらしい。 思いがけず 現れた幼い少女に驚き 目を剥いているカロンに、ナターシャは、できるだけマーマに似せて丁寧に頼んでみたのである。 「カロンおじちゃん。ナターシャを お舟に乗せて。え……と、乗せてくだサイ」 「おまえが なぜ俺の名を知っているんだ」 「星矢お兄ちゃんから聞い――たんじゃなくて、有名だからダヨ! カロンおじちゃんの名前は、誰でも知ってるヨ!」 ナターシャが慌てて言い直したのは、もちろん、カロンの嫌いなタイプを知っていたからである。 ナターシャの近所では、“カロン”より“星矢”の方が はるかに有名だったが、ここで星矢の名を出すのはまずい。 有名と言われて、カロンは素直に得意顔になってくれた。 「ふふん。乗せてやらんこともないが、金は持っているんだろうな? いくら払えるんだ?」 「お金? お金はないヨ。ナターシャはまだ お小遣いをもらうには早いんだって。パパとマーマが そう言ってタ」 「何だ、文無しか。じゃあ、駄目だ。諦めろ」 「ナターシャは、諦めないヨ! ナターシャは絶対、ハーデスっていう人のところに行くんダヨ」 「お……おまえ。ガキのくせに、その名を そんなに軽々しく……」 カロンは、名を口にすることも はばかるほど、ハーデスを恐れているようだった。 好みのタイプがマーマなのだから、ハーデスは優しい人が好きな 優しい神様のはずである。 ハーデスを恐れるカロンの気持ちが、ナターシャには よくわからなかった。 だが、そして、彼が恐れている人を 自分は少しも恐くないのだから、自分は このおじちゃんより ちょっぴり強いのだろうと、少し自信と勇気が出てきたのである。 「お金はないけど、ナターシャ、おじちゃんに お歌を歌ってあげるヨ! ナターシャは、お絵描きもできるんダヨ! カロンおじちゃんの絵を描いてあげるヨ。ナターシャのパパとマーマは、ナターシャは お歌もお絵描きも すごく上手だって褒めてくれるヨ!」 “カロンより強いこと”より ずっと、お歌とお絵描きには自信がある。 カロンは、お歌とお絵描きのどっちをリクエストしてくるのだろうと考えながら、ナターシャは その提案をしたのに、ナターシャより弱いカロンは、歌と美貌に関する自信はナターシャ以上のようだった。 「んなもん、いらねーぜ。歌は 俺の方が上手いに決まってるし、絵は、俺様の この高貴な姿を紙の上に写し取ることなんぞ、どんな天才にもできるわけがないからな!」 「……」 “コウキ”というのが どういう意味なのかを、ナターシャは知らなかった。 だが、ナターシャは、世界でいちばんカッコいいパパと 世界でいちばん綺麗で優しいマーマとナターシャの絵を描いて、パパとマーマに たくさん褒められた。 パパとマーマだけではなく、星矢も紫龍も吉乃にもシュラも――皆が口を揃えて褒めてくれた。 『これほど愛の込もった絵はない。幸せ いっぱい、夢いっぱい。ナターシャの絵を見ていると、見てる こっちまで幸せな気分になるな』と、大絶賛だったのだ。 だから、ナターシャは、カロンの決めつけが 非常に不本意だった。 この場に、パパとマーマに買ってもらったクレヨンがないことを思い出したナターシャは、すぐに第三の提案に及んだのだが。 「じゃあ、ナターシャ、カロンおじちゃんのお舟を綺麗にしてあげるヨ! ナターシャは、お掃除や お料理のお手伝いも得意ダヨ!」 今度はシンデレラ方式である。 その提案には、カロンも かなり心を動かされたようだった。 カロンの舟は、100年も洗っていないのではないかと思えるように真っ黒だったから。 「俺様の舟を綺麗に、か。それは、確かに やる価値のある仕事だ。よし、やってみろ」 「ナターシャ、頑張るヨ!」 カロンが『やっぱり、やーめた』と言い出す前に、舟のお掃除開始。 「お掃除は、汚れの種類によって、お酢を使う汚れと お塩を使う汚れがあるんダヨ。素材を痛めたくなかったら、シャンプーか重曹ダヨ。このお舟はどっち?」 水まわりの掃除なら、パパが天才である。 ナターシャは いつも、パパの指示に従って 棚から洗剤を取り出すお手伝いをしていた。 使う洗剤さえわかれば、それで汚れを覆って拭い去るだけ。簡単である。 「汚れの種類なんて知らねーよ。この舟に こびりついている汚れは、まあ、しいて言えば、人間の貪欲と冷酷だな。ついでに言うと、ここには洗剤もタワシもねぇから」 「タワシ?」 タワシ。それは何だろう。ワタシとは違うのだろうか。 タワシはともかく、洗剤がないのでは、お掃除ができない。 人間のドンヨクとレイコクは 酸性の汚れなのか、アルカリ性の汚れなのか。 カロンは、その区別もできなさそうである。 そして、彼は、この舟が新品のようにぴかぴかにならなければ、ナターシャをハーデスのいる冥界にまで運んでくれそうになかった。 ナターシャは、カロンの舟の横で 途方に暮れてしまったのである。 (ドウシヨウ……。パパ、マーマ、ナターシャ、どうしたらいいノ……) 泣くまいと思うのに、二度とパパとマーマに会えないかもしれないことを考えると、どうしても涙が零れてしまう。 その涙の滴が一粒、カロンの舟に落ちた時。 どこからか、恐ろしく大きく強く美しい小宇宙が飛んできて、ナターシャの涙の滴の中に飛び込み、広がった。 「えっ」 パパのものでもマーマのものでもない小宇宙。 パパのものでもマーマのものでもないのに、こんなふうに大きくて強くて綺麗な小宇宙には触れたことがない。 ナターシャが瞳を見開くと、瞬く間に、カロンの舟は きらきらと眩しく輝く白金の舟に変わってしまった。 「あわあわあわわ…… !! 」 白く輝く舟を見て、カロンが漫画の登場人物のように腰を抜かしている。 「おまえ、何もんだっ!」 怒鳴りつけてから、カロンは、だが、突然その態度を一変させた。 彼は 恐ろしい怪物を見るような目で ナターシャを見詰め、それから 舟に乗るよう、ナターシャを促した。 「ナターシャ、乗ってもいいノッ !? 」 ナターシャが尋ねても、カロンは無言で こくこく頷くばかりである。 そうしてカロンは、ナターシャだけが乗った舟を漕ぎ出し、あっというまに 対岸までナターシャを運んでくれたのだった。 「カロンおじちゃん、アリガトウ!」 舟から降りたナターシャが礼を言うと、カロンは、 「川を渡してやって、礼を言われたのなんて、何年振り……いや、十何年振りか」 という独り言で答えてきた。 そして、ふと思いついたように、 「おまえ、もしかして、あいつ等の一味か?」 と呟き、 「いや、まさかな」 と、一人で完結。 「ナターシャ、きっとハーデスのとこに行くヨ! ガンバルヨ!」 ナターシャの決意にカロンは引きつった笑いを顔に貼りつけ、 「この先の第一獄にある裁きの館には、ルネっていう気取った男がいる。そいつは、とにかく騒がしいのが嫌いな奴でな。ちょっと うるさくすると、すぐにヒスを起こしてムチを振り回すから、静かにしてるんだぞ」 という、アドバイスをナターシャにくれたのだった。 |