アケローン川という大きな試練を乗り越えたナターシャが 次に辿り着いたのは、大きな大理石の神殿。
カロンのアドバイスに従って静かに、『ごめんください』も心の中で言って、ナターシャは その建物の中に入っていった。
建物の最奥正面に、大きな机の上に大きな本を広げた男が一人。
ナターシャの姿を見ると、彼は、ナターシャに『こんにちは』も言わせず、
「私は天英星バルロンのルネ。この裁きの館では、犯した罪の記録がすべてだ。犯した罪の内容は すべて、この本に記されている。どんな隠し事もできない」
と、自分だけ自己紹介をし、自分の用件だけを言った(ナターシャには何も言わせなかった)。
更に、
「しかし、こんなに幼い子供が私の裁きを受けなければならないほどの、どんな罪を犯したというのだ。いや、そもそも死んだ記録がないぞ。なんと、生まれた記録もない」
自分が言いたい独り言を勝手に言う。
その独り言が、しかし、ナターシャには聞き捨てならないことだった。

「ナターシャは いつも いい子にしてるヨ! イイコにしてたキロクはないノ?」
大事なのは、悪いことより いいことの方である。
大切なのは、悪い子でいたことより、いい子でいたこと。
悪いことより、いいことの方が いいに決まっていた。

「イイコにしていた記録? そんなものがあるわけがないだろう!」
悪い子の記録はあって、いい子の記録はない。
そんな片手落ちを 当然のことのように言うルネの得意げな顔は、ナターシャには理解できないものだった。
それは悪いことではないかもしれないが、うっかりさんのすることである。

「そんなの、よくないヨ。ナターシャのマーマはいつも言っテル。人の悪いところより、いいところを探すのがいいんだよッテ。人の悪いとこばっかり探して、悪いとこばっかり見てたら、自分も 嫌な子になっちゃうよッテ。そういう人はね、幸せになれないんだッテ」
「何を言う。わ……私は……」
「お兄ちゃん、嫌な子なの?」
「こ……この私が、嫌な子だと !? 子供の分際で、無礼な!」

幼い子供は、普通は、“いいことも悪いこともしていない者”と見なされ、冥界に入ることができない。
この裁きの館に ナターシャのように幼い子供がやってきたのも初めてなら、裁きの館の裁判官が 幼い子供に非難されるのも、これが初めてのことだったろう。
初めて経験する他者からの非難に 眉を吊り上げたルネに、ナターシャは むしろ期待に胸を膨らませて尋ねたのである。
「お兄ちゃんは、どんないいことをしたの?」
と。
ナターシャは、人のいいところを見付けたり 教えられたりするのが好きだったから。

「私のした いいこと? それは、まあ――職務に忠実に……」
「ショクムニチュウジツって、どういう意味?」
「一生懸命、自分の仕事をするということだ!」
ルネの苛立った声が ナターシャの顔を輝かせたのは、彼のした“いいこと”が、ナターシャのそれと同じものだったから――だった。
「ナターシャもダヨ! ナターシャは子供だから、いっぱい遊んで、いっぱい ご飯を食べて、いっぱい眠るのが仕事なんだって。マーマが いつもそう言ってル。ナターシャ、子供の仕事をいっぱいしたヨ!」
「私の仕事は、そんな気楽なものでは――」
「ナターシャが ここを通るのを許してくれたら、お兄ちゃんは もう一つ いいことをしたことになるヨ! お兄ちゃんが すごくいい人で、ナターシャ、ほんとによかったヨ!」
「……」

冥界の裁判官ミーノスの副官。
彼の代理として、裁きの館で亡者たちを裁く役目を担う天英星バルロンのルネともあろうものが、幼い少女の いい人認定に気をよくして、彼女が先に進むことを許したのだとは考えにくい。
もしかしたら、“格別のお方”から何らかの指示があったのかもしれないし、そうでないにしても、ナターシャに対して何か感ずるものがあったのかもしれない。

いずれにしても、彼が、ナターシャに裁きの館を通って 第二獄に行くことを許可し、あまつさえ、
「第二獄にいるケルベロスは、生肉が大好きな狂暴な怪物だ。だが、いちばんの好物は、美しい音楽なんだ。三つある頭のうち、いつも二つが目覚めているが、美しい音楽を聴くと、すべての頭が眠ってしまう。食べられぬようにな」
というアドバイスをくれたのは、紛う方なき事実だった。






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