ケルベロスを簡単に眠らせることができたのはよかったのだが、おかげで ナターシャは、自分が次にどこに行けばいいのかを 誰にも教えてもらえなかったのである。
どうしたものかと、きょろきょろしていたナターシャを見付けてくれたのは、通りすがりの琴座のオルフェだった。
彼はなんと、元アテナの聖闘士で、ナターシャのマーマを知っていたのである。
彼自身は、今はもう 死んでしまっているらしかったが。

「ナターシャ、もしかしたら 死んじゃったのかもしれないノ。でも、パパとマーマに会いたいから、生き返らせてくださいって、ハーデスっていう人にお願いに行くんダヨ」
というナターシャの訴えを聞くと、オルフェは とても悲しそうに瞼を伏せた。
そして、まるで自分に言い聞かせるように、ナターシャを諭してくる。
「死んだら、諦めるしかないのだ」

「デモ、ナターシャには、死んだ記憶がないんダヨ。法廷のいい人の お兄ちゃんも、ナターシャには死んだ記録も生まれた記録もないって言ってた。ナターシャ、死んでないかも。ナターシャは、きっと間違いで ここに来ちゃったんダヨ」
「自分の命を諦められない気持ちはわかるが……」
オルフェは優しい人のようだった。
ナターシャが 星矢に聞いていたオルフェ情報も、『琴が上手で、恋人にめろめろ』だけで、あのお喋りな星矢が、多くを語ることはなかった。
きっと彼は、何か子供には教えられない深い事情を抱えた人なのだろう。

決して 悪い人ではない。
『諦めろ』という忠告も、おそらく優しさから出た言葉なのに違いなかった。
だが、ナターシャは諦められなかったのである。
ナターシャが欲しいものは、自分の命ではなかったから。
「マーマが言ってた。ナターシャが怪我したり、病気になったりすると、パパが心配してパニックになっちゃうカラ、ナターシャはいつも元気でいなきゃならないよッテ。ナターシャが死んだりしたら、パパは大パニックダヨ。だから、ナターシャは 絶対にパパのところに戻らなきゃならないんダヨ。生き返らなきゃならないんダヨ。ナターシャ、諦めないヨ。挫けないヨ。だって、パパのためなんだカラ!」
ナターシャが諦められないのは、自分の命ではなく、パパの幸せだった。

「パパのため、か……。僕がユリティースの蘇りを願ったのは、自分の恋のため、自分の幸せのためだったな……」
「エ?」
涙と、決然たる強い意思と。
それらを宿したナターシャの瞳を 切なげに見詰めていたオルフェは、やがて その目許に、ひどく悲しげな微笑を刻んだ。
そして、言う。
「君のように小さな女の子が ここまで来れたのは、きっと訳があるのだろうね。もしかしたら ハーデスが君を呼んでいるのかもしれない。いや、きっと そうだ」

「ハーデス……サンがナターシャを呼んでるノ?」
「……多分。君がとても可愛らしいから」
「ウフフ」
『可愛い』は、もちろんパパに言ってもらうのが いちばん嬉しいが、他の誰に言われても嬉しい。
笑顔になったナターシャに、オルフェは一輪の花を手渡してきた。
薄いオレンジ色のガーベラ。
「この花を持って、『冥府の王の許へ』と心の中で唱えれば、君は君が行こうとしていたところに行けるよ」
「ホント !? 」
「ああ」
「アリガトウ! オルフェお兄ちゃん!」

オレンジ色の花のようなナターシャの笑顔を見詰め返すオルフェの眼差しは、喜びと悲しみ、後悔と希望が、不思議に入り混じっていた。
その眼差しの中で、ナターシャは、オルフェに教えられた呪文を唱えたのである。






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