あの子に初めて会ったのは、僕がアンドロメダ島に行くことが決まった日――兄さんがデスクィーン島に送られることが決まった日だった。 春が終わりかけていた。 時刻は、世界のすべてが ぼんやりし始める日暮れ時。 場所は、城戸邸の広い庭の西側の隅にあるエニシダの茂みの奥。 大人たちは――少なくとも、城戸邸にいる大人たちは――そんなところに人間が入り込めるとは考えもしないらしくて、僕は そこを 僕の秘密の逃げ場所にしていた。 そこのエニシダの花は黄色じゃなく白色で、あの季節の僕の秘密の逃げ場所は、緑色の野原に雪が舞い散ってるみたいに綺麗だった。 綺麗なことを、とても悲しく感じたことを憶えている。 あの日、僕が そこに隠れて泣いていたのは、僕のせいで兄さんが地獄の島に送られることになったから――じゃなかったと思う。 僕は、どうせ、どこに送られても生きて帰ってくることはできないに決まっているんだから、生還できる可能性の高い兄さんこそが 少しでも生還できる可能性の高い場所に行った方がいい。 だから、地獄の島デスクィーン島へは、僕が行くべきなんだ。 もともと デスクィーン島を引き当てたのは、僕なんだから。 なのに、恐くて、そう言い出せない。 そんな自分が情けなくて、自分の勇気のなさが悲しくて、兄さんに頼り甘えるばかりの自分の卑怯が憎くて、僕はそこに隠れて泣いていたんだ。 以前――城戸邸に来る前にいた施設で、宇宙から見た地球の写真を見たことがある。 国境線なんかない、白い模様の入った真っ青なビー玉みたいな地球が、暗い空の中に、まるで宇宙に ただ一つの希望の星みたいに凛として佇んでいた。 あの時 僕は、この綺麗な星で戦いが絶えず、そのせいで 不幸な子供たちが増えていることを嘆いて、戦いのない世界を夢見た。 戦いで親をなくす不幸な子供を一人でも減らしたい。 そのために 僕にできることをしたい――何かができる人間になりたい。 そんな願いを胸に抱いていた僕は、でも、現実には、誰かを救うこともできず、僕自身をすら救うこともできない無力な存在だ。 僕自身を救うことができなくても、せめて兄さんを救うことができたなら、僕は こんなに自分を嫌いにならずに済んだろうに。 兄さんを救うどころか、僕は いつも兄さんのお荷物で――そして、最後まで お荷物だった。 弱くて、泣き虫で、平和を守るために力を尽くしたいなんて、きっと永遠に叶わない願いだ。 「僕は何もできない。何もできない」 自分を鼓舞するためではなく、これから起こる不幸に耐えるために、僕は声に出して、そう言った。 その事実を忘れて 希望を持ってしまわないように、自分自身を戒めるために。 その つらい独り言に、まさか答えが返ってくるなんて、僕は思っていなかったんだ。 でも、答えは返ってきた。 それが僕の独り言への答えだとは、最初 僕は気付かなかったんだけど。 「そんなことないヨ。マーマは、地上の平和を守って、たくさんの人の命を救う強い人になるんダヨ。マーマは、とっても立派な人になるんダヨ」 それは小さな女の子の声だった。 エニシダの茂みのこっち側。 身体の小さな子供だけが潜り込める こっち側に、その子は小さな拳を握りしめて立っていた。 この子は何を言っているんだろう? 「マーマ……っていうのは、氷河のマーマのこと? 君は氷河のことを言ってるんだね。うん。氷河なら、僕なんかよりずっと強いから、平和を守るために戦える人になると思うよ」 城戸邸には100人もの孤児が集められていて、お母さんの記憶がある子も幾人かはいたけど、その子たちの記憶のほとんどは 楽しいものでも明るいものでもなくて――城戸邸で進んで お母さんの話をしたがるのは氷河くらいのものだった。 お母さんのことをマーマと呼ぶのも氷河だけ。 だから、僕は、その子が氷河のことを話しているんだと思った――んだけど。 「マーマダヨ! マーマが強くなるノッ。パパも強くてカッコいいけど、マーマは、そのパパを守れるくらい強くなる。パパとマーマが強くなってくれないと、ナターシャ、困るんダヨ!」 「マーマとパパって……」 彼女が誰のことを――むしろ何のことを――話しているのか全然わからない。 氷河のことだと思うけど、でも、それも変だ。 彼女の話には、パパとマーマ、そしてナターシャという少女の三人の人間が登場する。 長い髪を左右二つに分けて結んでいる この少女は、僕より少し年下だろうか。 リボンの飾りのついた 真新しい綺麗なワンピースに、短い上着。 花の形の飾りがついたピカピカのエナメルの靴。 施設で集団生活をしている子供なら決してしない――できない恰好をしているから、考えられるのは、この屋敷のお嬢様のお友だちっていうパターンだけど、でも、そんな子が こんな裏庭の奥まで一人でやってきたりするだろうか。 「君はナターシャ……ちゃんっていうの?」 ナターシャっていうのは外国の人の名前だよね。 日本語を話してるけど、この子は外国の人なんだろうか。 顔立ちは日本人のような、日本人でないような。 でも、顔より、顔以外の何かが普通の子供と違うから、僕は その子を外国人なんだろうと思った。 氷河も――氷河は半分だけ外国人なんだけど――氷河も、髪や瞳の色だけでなく、背中や腰の辺りの骨格や筋肉のつき方が、他の子供とは違うんだ。 この子も、手足のバランスが普通の日本人の子供とは違うような気がした。 「ウン。ナターシャはナターシャっていうの。パパがつけてくれた名前ダヨ!」 大きな瞳を きらきらさせて、彼女――ナターシャは、笑顔で頷いた。すごく明るい。 「そうなんだ……。君には、優しいパパと強いマーマがいるんだね」 「ソーダヨ。ナターシャのパパとマーマは世界一のパパとマーマダヨ!」 その言葉に 微塵も疑いを抱いていないように自信満々、得意げに、誇らしげに、彼女は力強く言い切った。 パパとマーマがいて、そのパパとマーマが世界一。そう信じられるパパとマーマ。 だから、彼女は、こんなに明るく溌剌としているんだ。 だから、彼女は、こんなに幸せそうに輝いて見えるんだ。 羨ましい。 もしかしたら、彼女は、僕が生まれて初めて出会う、両親が揃っていて、両親に愛されていて、両親を愛している子供だったかもしれない。 「いいなぁ。君は いつまでも明るく幸せでいてね」 不幸な子供を減らすことはできないけど、幸福な子供の幸福が続くように祈ることはできる。 僕には それしかできない。 彼女の幸せは、彼女が彼女の両親から与えられたもので、彼女が彼女自身の力で勝ち取ったものでもなく、だから、僕が彼女の幸せを祈ったところで何が変わるわけでもないんだけど。 でも、彼女――ナターシャは、何だか彼女自身が頑張ってるみたいだった。 何を頑張っているのかは、僕にはわからないんだけど、でも、そんな印象。 「ナターシャが明るく幸せでいるためには、マーマが強くなってくれないとダメなんダヨ。泣いてないで、元気を出して!」 彼女が何を頑張って、そんなに力んでいるのかは わからないけど、それ以前に 話が噛み合わない。 ナターシャは、僕をマーマと呼んでいる――ような気がした。 「君のマーマは、強くて立派な人なんでしょう? そんな人が泣いたりするの?」 僕が そう訊いたら、彼女は、僕の すぐ目の前に来て、僕の顔を見上げて、 「……マーマも泣くみたい……」 と呟いた。 「泣かないで、マーマ」 僕の目を見て、僕の頬を撫でて、ナターシャは そう言う。 彼女が『マーマ』と呼んでいるのは、どう考えても僕だった。 でも、僕は彼女のマーマじゃないから――彼女は、『マーマ』を『あなた』という意味で使っているのかもしれない。 『マーマ』でも『パパ』でも『まんま』でも『ぶーぶー』でも、泣き声以外で初めて発した言葉を褒められて、気をよくした赤ちゃんが、『お父さん』も『お母さん』も『ミルク』も『乗り物』も、全部をその言葉で呼ぶように。 そんな赤ちゃんに、以前いた施設で何人か会ったことがある。 一緒にいられなくなった お母さんのことも、牧師さんのことも、空腹もミルクも、全部『まんま』な赤ちゃん。 僕のことも、おしめも、寂しいことも楽しいことも、全部『あぷぷー』な赤ちゃん。 ナターシャは、あの赤ちゃんたちみたいに、自分の前にいる人を誰でも『マーマ』と呼ぶんだ。多分。 僕は、そう思った。 「マーマが悲しくて寂しかったら、ナターシャも悲しくて寂しい。ナターシャがどんなに幸せでいたくても、マーマがそんな顔してたら、ナターシャも悲しいに決まってル。マーマが泣いてるのに、ナターシャが笑ってられるわけがないヨ。ナターシャだけじゃないヨ。マーマが悲しかったラ、マーマを好きな人が みんな悲しいヨ」 彼女の言う『マーマ』を 僕のことだと思って聞けば、彼女の話の意味が少しはわかる――ような気がした。 少しだけわかって、大混乱した。 「僕を好きな人が みんな?」 彼女は、そう言っているのかな? そんなこと、あるはずがないのに。 でも、彼女は こっくり頷いた。 そして、 「世界中の人がマーマを大好きだから、マーマが悲しいと、きっと 世界中の人が悲しい気持ちになるヨ」 と、大真面目な顔で言う。 本当に、この少女は何を言っているんだろう。 僕は驚き呆れて、でも、すぐに考え直した。 ナターシャちゃんは、僕より こんなに小さいんだもの。 彼女の言う『世界』は、僕が思う世界とは違って、『自分の周囲』くらいの意味なんだよ。 彼女の言う『あなた』が『マーマ』なように、彼女の言う『世界』は、自分の身近。 そう置き換えれば、彼女の言うことは、ちゃんと筋が通っていた。 僕が泣いていると 僕の周りの人も泣いちゃって、僕が悲しんでると 僕の周りの人も悲しい気持ちになって、兄さんも氷河も みんなを不幸せにする。 ナターシャちゃんは、そう言ってるんだ。 そして、きっと それは事実だ。 僕が うじうじしていたら、兄さんは僕のことを心配して、自分を心配する余裕もなくなる。 僕は、嘘でも 元気で頑張れる振りをして、兄さんを安心させてやらなきゃならないんだ。 せめて 兄さんが 自分の力を僕のためではなく兄さん自身のために使えるように。 「そんなこと、させられない。僕、頑張る」 ただの強がり、頑張る振り。 それでも、その“振り”は、少なくとも 僕の目の前にいる小さな女の子を笑顔にすることはできた。 ナターシャちゃんが嬉しそうな笑顔になって、 「ファイトで、ガッツダヨ、マーマ!」 と、お嬢様らしからぬ檄を飛ばしてくる。 ナターシャちゃんは、やっぱり沙織お嬢さんのお友だちではないみたいだ。 違う人種だと感じる。 ちょっと変わった子。 でも、可愛い子だったな。 明るくて、元気で。少し、手指や足のバランスは変だったけど。 僕が そう思ったのは、一風 変わった その元気な女の子が、僕の秘密の逃げ場所から いつのまにか姿を消してしまっていたから。 立ち去った場面を見たわけじゃないのに、日が暮れそうだから 世界一のパパとマーマの待つ家に帰ったんだろうなって、僕は 呑気に思っていた。 |