僕が三度目に ナターシャちゃんに会ったのは冥界。 冥界の空は いつも 夕暮れみたいに 灰色に ぼんやりしていたから、時刻はわからない。 場所は、冥界の第一獄、裁きの館を抜けたところ。 地上の平和を守るため、正義の名のもとに 多くの人を傷付け倒してきたことを、天英星バルロンのルネに咎められ、僕は、戦い続けることを放棄しそうになって――カノンに、その弱さ甘さを叱咤されたばかりだった。 幾多の戦いを経て、強くなったつもりでいたのに――と、少し落ち込んでいたかもしれない。 でも、カノンの かなり厳しい鼓舞のおかげで、僕は 戦い続ける決意はできていたんだ。迷いは消えていた。 なのに、ナターシャちゃんは 僕の前に現れた。 「ナターシャちゃん。こんなところにまで……」 ナターシャちゃんは普通の女の子じゃないと思っていたし、不思議な力を持つ少女だとも思っていたけど、それでも 僕は驚いた。 ここは冥界。 本来は、死んだ人間だけが来る場所だ。 いくらナターシャちゃんが 僕の世界とは違う世界の住人なのだとしても、まさか こんなところでナターシャちゃんに会うなんて。 僕は、ナターシャちゃんの神出鬼没振りに 驚嘆した。 陽光の届かない薄墨色の世界で出会ったナターシャちゃんの花色の可愛らしい姿は、僕の心を温めてもくれたけど。 「マーマ、大丈夫?」 ナターシャちゃんは、心配そうな目をして、僕を見上げてきた。 「ナターシャちゃん……。僕、随分 強くなったつもりだったんだけどね」 でも、鋼鉄の神経までは養えていなかったみたいだ。 ナターシャちゃんを不安にしないために――僕は 笑ったつもりだったんだけど、笑えた自信はない。 「マーマは強いヨ」 ナターシャちゃん―― ナターシャちゃんに初めて会った時、僕とナターシャちゃんの歳は2歳と離れていなかったと思う。 今、僕を力づけようとしてくれているナターシャちゃんは、でも、きっと僕より10歳は年下だ。初めて会った時には そんなことをする必要はなかったのに、今は、視線をナターシャちゃんのそれと同じ高さにするために、僕はしゃがみ込まなきゃならない。 そして、大人みたいに僕を励ましてくれるのは、僕よりも小さなナターシャちゃんの方なんだ。 「マーマは強いヨ。マーマは、かわいそうで弱いところから始まって、泣いたり負けたり悩んだりしながら、強くなった。マーマは、最初から強かった人とは違う。マーマは優しくて強い。だから、弱い人の心もわかる。マーマはリッパダヨ。これから、もっともっと強く優しくなるヨ。悲しいことも、苦しいことも、まだまだあって、でも、だから、もっともっと強くなる。強くなって、そして、必ず ナターシャのところに来て」 「え……?」 『強くなって、ナターシャのところに来て』? それは、ナターシャちゃんが僕の力を必要としているということ? もし そうなら、僕は必ずナターシャちゃんのところに行くよ。 必ず この冥界での戦いを最後まで戦い抜いて、必ず 生きのびて、必ず ナターシャちゃんのところに行く。 きっと、ナターシャちゃんを助けに行く。 「ナターシャちゃんはどこにいるの?」 妖精だって天使だって、人間の力を必要とすることはあるだろう。 なら、僕はきっとナターシャちゃんを助けに行くよ。 自分がどこにいるのか、でも、ナターシャちゃんは僕に教えてくれなかった。 その代わり、ナターシャちゃんは、これまで いつもナターシャちゃんが そうしてくれたように、僕を力づけてくれて――。 「マーマ、忘れないデ。マーマに、世界の平和とパパとナターシャの幸せがかかってる。どんなに つらいことがあっても、負けるかもしれないって思っても、絶対に挫けないデ。絶対に負けないデ。マーマは世界でいちばん強い人間だからネ。世界で いちばん強くなる人間だからネ」 僕に そう言うナターシャちゃんは、これまでで いちばん心配そうな目をしていた。 初めて会った時よりずっと、僕は強くなっているはずなのに。 だから――僕が これから戦う冥府の王ハーデスは それほど強大な力を持つ敵なんだと、僕には わかった。 ナターシャちゃんは、それを知っているんだ。 そして、冥府の王を倒して、もっと強くならなければ、僕はナターシャちゃんを助けにいけないんだろう。 だったら、僕は、ここで負けるわけにはいかない。 絶対に。 「世界の平和とナターシャちゃんのために、僕は負けない」 「ウン。ナターシャ、信じてる。ナターシャは、マーマを信じてるヨ」 心配顔だったナターシャちゃんは、僕の その決意を聞いて、眉間の緊張を少し解いてくれた。 「ナターシャは マーマを待ってるヨ。早く、ナターシャのところに来てネ。ナターシャ、待ってるカラ」 ナターシャちゃんの姿が 冥界から 掻き消すように消えていく。 消える直前、ナターシャちゃんは、笑顔だった。 ナターシャちゃんは、僕を信じて待っていてくれるんだ。 僕は、その期待に応えなくちゃならない。 そこにはもう ナターシャちゃんの姿はなかったんだけど、ナターシャちゃんのいた場所に向かって、僕は微笑んだ。 ナターシャちゃんが何を心配して、あんな目をしていたのか、その訳を僕が知ったのは、琴座のオルフェの力を借りて、ハーデスのいるジュデッカに入った時だった。 まさか 僕自身が、僕が倒すべき敵の首魁そのものになるなんて、ナターシャちゃんが心配するのも無理はない。 でも、僕は、最悪の事態を免れることができたんだ。 僕にはアテナの加護があり、強い絆で結ばれた仲間たちがいたから。 黄金聖闘士たちが命をかけて、道を開いてくれた。 そして、ナターシャちゃんの励まし、ナターシャちゃんとの約束を守らなければならないという気持ち。 そのために 自分が何をしなければならないのかということが、僕には明確にわかっていた。 そして、僕は、仲間たちと共に、光あふれる地上世界に帰ってきたんだ。 アテナの聖闘士たちの前には、息つく間もなく、次の戦いが待っていたけど。 冥界での戦い以降も、地上世界は ただ平和なばかりの世界にはなってくれなかったけど、あれ以来、僕は 戦いに迷うようなことはなくなった。 |