自分の身体が男性のものであることは間違いない――と、デオンは言った。
だが、物心ついた頃、男子である自分に違和感を覚えるようになった。
自分は女性だと感じるようになった。
家族や周囲の人間からは 男性として生きることを強いられ(彼等は、“強いている”意識さえなかったろうが)、その期待に応えようと努力して努力して、偽りの努力が苦しくなり、故郷を捨てた。
縁あってフランス王家のスパイとして働くことになり、ロシアで、エリザヴェータ女帝付きの女官でいられた時は嬉しかった――。

自分の人生において最も幸せった頃の思い出を、デオンは うっとりした表情で語ってくれた。
ロシア宮廷には 高貴な貴婦人方にも 体格のいい女性が多く、デオンがドレスで着飾っていても奇異に思われることがなかったのだ。
その幸福な時期を経験して、デオンは、
「神が間違えて、男の身体に女の心を入れてしまった。それが私なのだと思う」
という結論に至ったらしい。

「人の目に どんなに醜悪に見えても、どんなに気持ち悪く思われても、私は女性だ。心は女性なんだ……」
デオンは、ふざけているのではないようだった。
同性愛者というのでもないらしい。
氷河が尋ねると、
「恋をしたことはない」
と、彼女は言った。
自分が男なのか女なのか わからないのに、恋などできるわけがない――と。
そう告げるデオンは――リアは、つらそうだった。苦しそうだった。

「私は自分で自分がわからない。私は、自分を女性だと思う。だが、私以外のすべての人間が、私を男性だと言う。自分を無理に男だと思おうとすると、途轍もない罪を犯しているような気持ちになる。私という存在ほど不確かなものはない。この世界で、私だけが不確かな存在なのだと、おかしいのは私だけなのだと、自分を卑下し慰撫しながら生きていたところに、あの革命だ。フランスは崩壊寸前。この世に確かなものなど、何ひとつない。故国に帰る場所を失って、根無し草となった私は、自分が何者なのかを 誰かに決めてもらおうと――」
リアは やけになって、自分が何者なのかを自分で決めることを放棄してしまった――のだろうか。
それは、自分を見放し、諦めるということではないのか。
それは、あまりに悲しい。

瞬が、リアの身体を支えて 立ち上がらせ、長椅子の場所まで連れていく。
案じ顔の瞬に、リアは、
「ありがとう。ちょっと痛いだけだから、大丈夫。こんなのは苦しいうちに入らない」
と、低い声で言った。
身体を壁に強かに叩きつけられるより苦しいことがあると、暗に彼女は言っていた。

「リアさんは、男性の服を着ると 気分が悪くなるんです。汗の量が尋常でなくなって、吐き気もして――」
「それは……」
リアの体調不良には、宗教的な罪悪感も影響しているのかもしれない。
旧約聖書『申命記』には、「女は男の着物を着てはならない。また、男は女の着物を着てはならない。主は そのようなことをする者を忌み嫌われる」と記されている。
その記述ゆえに、長いこと、異性装は 異端の証とされていた。

リアは、生真面目で常識的で道徳的な人間なのだろう。
そういう生き方をしたいのに、心と身体の乖離が、そう生きることを彼女に許してくれない。
自身を 生真面目でも常識的でも道徳的でもないと思っている氷河にも――そんな氷河だから、かえって――リアの苦しみが わかるような気がした。

人間というものは誰でも大抵、最初は、真面目に清らかに生きようとして、自分の命の道を歩き始めるのである。
だが、長ずるに従い、そういう人間でいることの困難を知り、諦め、開き直り、いくらか汚れた人間として生きることを、自分に許すようになる――妥協を覚える。
氷河も そういう人間の一人だった。

だが、氷河には、ただ一つだけ、絶対に妥協できず、譲歩できず、自分を甘やかし 許すことのできない事柄があった。
そのただ一つの事柄が、完全なものであるがゆえに、氷河は 自分が清廉潔白でないことに耐えていられたのだ。
氷河の、ただ一つ、決して妥協できないこと。
それは、他でもない、“愛”という問題で、氷河は人を愛する自分の気持ちにだけは、どんな嘘も汚れも許すつもりがなかった――些細な嘘も汚れも受け入れられなかった。
その代わり、他のことは、割と どうでもいい。
そういう信条で生きているので、そういう信条にのっとって、氷河はリアに告げたのである。

「自分の思う通りに生きればいいじゃないか。人として正しくあるなら――少なくとも 俺は、それが男でも女でも、正しい人を責めようとは思わんぞ。今は、異装者が異端者として処刑された暗黒の中世とは違うんだ。神の存在すら疑われている。道徳や正義の内容も、一晩で覆る。あんたの国では、一瞬で 最高権力者が すべての力を奪われた。大事なもの、変わらぬもの、確かなものは、自分の心の中にしかない。それを守るべきだ」
“それ”が、氷河は“愛”だった。

勘違いで人を突き飛ばしておきながら『ごめんなさい』も言わず、『自分の思う通りに生きればいい』などということを、したり顔で言ってのける男の顔を、リアがまじまじと見つめる。
その隣りで、瞬も――こちらは少し驚いたような目で、氷河を見詰めていた。
「氷河……」
瞬は、氷河がリアに対して好意を抱いていないと思っていたのだろう(瞬の その推察は事実だった)。
だが、そう思っていたからこそ、氷河の その言葉が とても思いがけなく、とても嬉しかったらしい。
氷河を見詰める瞬の表情は はっきりと明るくなった。
「氷河の言う通りですよ。リアさん。リアさんは、悩み苦しみながら、自分の命と人生を誠実に生きてきた。きっと神様は、リアさんの誠実で真摯な気持ちを認め、受け入れてくださいます。それを認めてくれない神など、神と認める必要はない」

リアに対して好意的な氷河の発言が、瞬には思いがけないものだったのだろうが、瞬の その発言もまた、氷河には思いがけないものだった。
瞬は自分より よほど道徳や常識や因習を重んじる生き方をしているのだろうと、氷河は思っていたのだ。
異性装という点では、リアのそれも瞬のそれも同じだが、瞬のそれは 持参金を用意できない自分の家の貧しさを隠蔽するためのもの。
不本意であるにしても、瞬は 体面を保つために――事実を隠蔽するために――男装を続けているのだ。

その瞬が、神より人間重視の発言。
半端な啓蒙思想かぶれの某ロシア帝国の某女帝陛下より はるかに、瞬は自由で進歩的である。
氷河は大いに驚き、瞬に関する認識を 大きく変えることになった。
もちろん、これまで以上に、良い方向に。
『優しく、美しく、聡明で、少々 固陋』を『優しく、美しく、聡明で、柔軟』に。

「ありがとう」
勘違いで人を突き飛ばしておきながら『ごめんなさい』も言わない男に、リアが『ありがとう』を言う。
まだ笑顔にはなれないようだったが、リアの表情は 先刻より明るいものに変わっていた。
「これまで 私は いつも 醜悪な道化者扱いで、私の周囲には、軽蔑か嫌悪のどちらかの目で 私を見る人ばかりだったのに……そんなふうに言ってくれたのは、あなた方が初めてです。神の許しが得られなくても、あなた方に許してもらえるなら、私は それだけで嬉しい……」
人間が神を軽視するようになったのは、人間が神に頼らずに幸せになる術を身につけ始めているからなのかもしれない。
神よりも人間。来世より現世である。

氷河としては、そんなに大層なことを言ったつもりはなかったのだが、リアは、氷河の言葉に 強く感ずるものがあったらしい。
彼女は、
「あなたは瞬が好きなんですね。多難とは思いますが、挫けないで」
と、なぜか氷河の恋を激励し、それから、
「私は、自分に正直に、自分に誠実に、生きていきます」
瞳に強い力をたたえて、宣言した。

“自分に正直に、自分に誠実に”――女性として生きていくことを、彼女は決意したのだろう。
それは、氷河には 実に好都合な決意で――だが、もし、リアの決意が『男として生きていく』であったとしても、氷河は その決意を翻させようとはしなかっただろう。
そのために女帝が大きな損害を被り、彼女が それを氷河の無能と怠惰のせいにして 彼女の臣下を冷遇しても、その時には、大人しく領地に隠遁して、女帝の怒りが収まる時を辛抱強く待つだけである。

賭けに乗ることを決めたのは女帝自身。“女性”に賭けることを決めたのも女帝自身。
賭けに負けたとしても(もちろん、勝った時も)それは、氷河のせいではなく女帝自身のせいなのだ。
それがわからない女帝ではない。
どんな事態になっても、辛抱強く待っていれば、女帝は いつかは 自分の非に気付き、認め、機嫌を直してくれるはずだった。
最悪の場合、故国での特権を放棄して、英国に亡命してしまうという手もある。
“愛”以外のことは割とどうでもいい氷河は、地位や財への執着も希薄だった。






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