「本当は、リアに賄賂を渡して、ウチの女帝陛下を勝たせる画策をするために来たんだが、それはやめることにした。女帝には、シュヴァリエ・デオンは女性だったと報告する」 結局 氷河は、自分が何者で、何をするために リアの部屋に忍び込もうとしていたのかをリアに告げず(当然、謝罪もせず)、彼女の部屋から、窓ではなく、ちゃんとドアを通って辞去した。 瞬には事実を告白したが、優しく美しく聡明で柔軟な瞬は、氷河の暴挙(未遂)を許してくれた。 傷付き 不安定に揺れていたリアの心を癒し、落ち着かせてのけた手柄に免じて――ということらしい。 「氷河は、任務第一で、国益のためになら、人の心を犠牲にしても仕方がないと考える人なのだと思っていました。氷河が温かい心の持ち主で、とても嬉しい。これまで誤解していて、ごめんなさい」 「俺が任務第一 ……?」 瞬も、見当違いな誤解をしてくれたものである。 氷河は、だが、その瞬の愉快な誤解を咎めようとは思わなかった。 今なら瞬は求婚を受けてくれるかもしれない。 今、瞬の心は 春の雪解け状態。この機を逃す手はなかった。 「ところで、瞬。その俺の故国のことなんだが、ロシアは今、エカテリーナ2世女帝陛下のもと、急激に近代化を進めている。ロシアはもはや、ヨーロッパの僻地、野蛮な後進国ではない。文句なしの文明国、先進国だ。しかも、おそらく現在の欧州で最も勢力がある国だろう。フランスなどとは違って、国の体制も盤石だ。ちなみに、最近の女帝の関心は、専ら、美術品の収集に向けられていて、既に ロシアの皇宮には レオナルドやラファエロやレンブラントの見事なコレクションができあがっている。一見の価値ありだ」 「それは……ロシアの隆盛は存じ上げていますが……」 「そして、俺は、結婚には愛情以外のものは必要ないと思っている。もちろん、持参金など不要。おまえは身ひとつで来てくれればいい」 「……」 “持参金を用意できない”などという くだらない理由で結婚を諦めていた瞬に、それは最高の安心材料。人生の希望の光であるはずだった。 が。 その希望の光が強すぎたのか、瞬が突然 黙り込む。 無言で氷河を見詰める瞬の眼差しは、ガラパゴス諸島のサン・クリストバル島に上陸するなり 巨大なウミイグアナに出食わしたダーウィンのそれのようだった。 つまり、見たことのない珍獣を見る者のそれ。 ロシア宮廷随一と言われ、このグレートブリテン王国の宮廷でも、その足許に及ぶものすらないと言われて 多くの貴婦人たちの熱い視線を受けている美貌の主と 対峙しているというのに。 長い沈黙の後、瞬は、半分 泣いているようで、半分 怒っているような、曰く 言い難い目と声で、 「僕は男子です」 と、氷河に告げた。 この期に及んで、まだ そんなことを――と、氷河が苦笑する。 「俺に そんな嘘をつく必要はない」 「ええ。僕は 誰に対しても、嘘をつく必要がありません」 「? 持参金を用意できなくて、家の体面のために、男の振りをするのも一種の嘘――」 体面のために性別を偽るのも 立派な嘘だと 断じることは、氷河にはできなかった。 もちろん、瞬への愛ゆえに。 愛する人を“嘘つき”と断じて、傷付けることはできない。 氷河が言葉を濁したのは 瞬への愛ゆえだったのに、瞬の声と眼差しの成分は 8割方、怒りに浸食されてしまっていた。 「男子に持参金はいりません」 瞬は、毅然として言い募る。 氷河は、この段になって やっと、その可能性に思い至ったのである。 瞬が 英国宮廷にいる すべての貴族の令嬢より可愛らしい顔立ちの少年だという可能性に。 氷河は、男性と見紛うほど立派な体格の女性は 幾人も見知っていたが、どんな少女より美しく可憐な男子というものには会ったことがなく、当然 そういう人間が存在する可能性についても 考えたことがなかった。 だというのに、何ということだろう。 よりにもよって、氷河が恋した人が それだったらしいのだ。 「し……証拠を見せろ。そんな突拍子のないことが信じられるか」 「そんなものを見せる必要はありません」 「よくも、そんな澄ました顔で、そんな冷酷なことが言えるな! 俺の恋心はどうなるんだ!」 「知りません」 瞬の答えは にべもなかった。 つい先ほどまで、解け始めた雪の中で小さな花を咲かせるスプリング・エフェメラルのように 優しく温かく 氷河を見詰めてくれていた瞬の視線が、今は ひどく冷たいものになっている。 リアと違って、瞬が心身共に 歴とした男子なのであれば、確かに氷河の その誤認は、瞬には侮辱以外の何物でもないのかもしれない。 もとい、侮辱そのものである。 リアが 妙に氷河の言葉に感動していたのは、氷河が 同性である瞬に恋をして苦しんでいる性的マイノリティ――つまり、リアが氷河を自分と同類だと思っていたからだったのだと、今になって氷河は気付いた。 社会に認められない立場にありながら、そのことに、負い目や引け目を感じることもなく、卑屈にもならず、『人として正しくあるなら、自分の思う通りに生きるべきだ』だの『自分の心の中にある、大事なもの、変わらぬもの、確かなものを守るべきだ』だのと、力強く 堂々と言い放つ氷河に、リアは勇気を与えられたのだろう。 リアは、氷河の言葉を、同志からの励ましと受け取ったのだ。 事実は――氷河は、自分を性的マイノリティと認識していなかっただけのことだったのだが。 そして、瞬が男子だとわかった今も、氷河は自分を性的マイノリティだと思うことはできずにいた。 「男だとわかったからといって、だから突然、恋を友情に変更できるかっ」 氷河には、自分が人として正しくないことをしているとは思えなかった。 氷河は ただ、自分が思い浮かべていた理想の人以上に 美しく優しく聡明で柔軟な人に出会い、その人に恋をしただけだったのだ。 「あの……」 誤解させた自分が悪い――と考えたわけでもないだろうが、少し申し訳なさそうに、瞬が氷河に問うてくる。 「氷河はそういう趣味の持ち主なんですか」 遠慮がちだが、単刀直入。 そして、そう尋ねられると、氷河は『そうではない』と答えるしかなかった。 「男が好きなのかと問われると、そうだとは答えにくい。俺が好きなのは、男でも女でもない、おまえだ。俺は、おまえが好きなんだ」 「あ……」 「この気持ちは、変えられない。おまえは、俺がおまえを好きになった時のまま、今も何も変わっていないんだから」 瞬に そう力説しているうちに、氷河の心は決まってきたのである。 気持ちは変わらないのだ。気持ちは変えられない。 瞬は、美しく 優しく 聡明で柔軟。 瞬は、氷河が恋した時のまま、何も変わっていないのだから。 自分は、人として正しくないことをしていない。 この恋は正しいと思う。 「俺は、俺が おまえに恋したことを、正しくないと思うことができない。俺は おまえを愛してしまったんだ。この思いは変えられない」 それが、氷河の結論だった。 「ここで おまえを諦めたら、俺はリアに嘘をついたことになる。そんな自分を、俺は許せない。俺はおまえを愛している。それが事実だ。おまえは、俺を嘘つきにしたいのか? おまえは そんなに俺が嫌いなのか」 「そ……そんなことは言っていません」 「そうか! おまえも俺を愛しているのか!」 「どうして、そうなるんですかっ」 瞬が何やら怒鳴っていたが、変えられない心なら 最後まで貫くしかない。 氷河は、そうすると決意した。 実際のところは、わざわざ決意しなくても、氷河は そうするしかなかったのだが。 シュヴァリエ・デオンの性別に関する賭けに勝ち、めでたく美術館建築の資金確保の目途がついた女帝は、上機嫌で、氷河をロシア陸軍中将に昇進させてくれた。 |