眠り込んでしまったチョコちゃんを その場に置いていくわけにもいかず、かといって家に連れ帰るわけにもいかず――瞬は、起こしてしまわぬように チョコちゃんを抱きかかえて、公園の管理事務所に運んだのである。 チョコちゃんが 管理事務所の職員には お馴染みの少女だったことを、瞬は そこで知ることになった。 瞬が あれこれ説明する前に、40代後半とおぼしき女性職員の一人が、眠っているチョコちゃんを 事務所の奥にある長ソファに下ろすよう、手で示してくれた。 「チョコちゃんといっていましたが……」 チョコちゃんは そんなに頻繁に ここに連れてこられるのかと、瞬が言外に問うと、職員は頷いて、溜め息混じりにチョコちゃんの名前の いわれを瞬に教えてくれた。 「愛称だと思うでしょう? チョコというのは本名なんですよ。チョコちゃんが生まれた年の前年に、いちばん多くつけられた名前がチョコだったとかで、その名をつけたんだそうです」 「は?」 何を言われたのかが わからなくて――瞬は即座に反応することができなかった。 「人間の名前とペットの名前は違うでしょうに」 と言われて、やっと職員の溜め息の訳を理解する。 「ペット――」 それは、我が子に名前で個性を与えられると信じる軽率な親たちが、我が子に軽率に与える ほとんど判読不可能な名より残酷なのではないか。 と、思ったことを言葉にすることさえ はばかられて、瞬は唇を噛んだ。 ともあれ。そんな情報が知れるほどに、チョコちゃんは公園の管理事務所の常連らしかった。 瞬が、児童相談所に通報した方がいいのではないかと言う前に、事務所の職員は、 「児相でも、なかなか対処できない状況らしくて」 と言って、二度目の溜め息を 瞬の前に差し出してきた。 チョコちゃんの母親は、まだ20代半ば。 20歳になる前にチョコちゃんを妊娠していることがわかり、チョコちゃんの父親と、一応 結婚したらしい。 だが、チョコちゃんが生まれて半年もしないうちに二人は別れて、現在 チョコちゃんは母親と二人暮らし。いわゆる母子家庭。 「そもそも、ちゃんと籍を入れて 正式に結婚したのか、ちゃんと籍を抜いて 正式に離婚したのかも わからないんですけどね」 チョコちゃんの名前のいわれを教えてくれた女性職員は、嫌そうに眉をひそめて そう言った。 彼女は、ちゃんと籍を入れて 正式に結婚し(もしかしたら、ちゃんと籍を抜いて 正式に離婚もし)たのだろう。 彼女は、チョコちゃんに同情しているというより、チョコちゃんの母親に腹を立てているようだった。 チョコちゃんの母親は 飲食店で夜の接客業に従事しているのだが、恋人ができると家に寄り着かなくなるらしい。 それだけなら、育児放棄と見なしてチョコちゃんを施設に保護することもできるのだが、チョコちゃんの家庭の ややこしいところは、恋人と別れると、途端に母親が 娘べったりになることなのだそうだった。 暴力による虐待はなく、むしろ それを避けるためなのか、恋人ができても、母親は彼を家に連れてくることはない。 パンやコンビニ弁当を買い込んで、家に置き、チョコちゃんを残して、自分が家を出ていくのだそうだった。 全く 子供のことを思っていないわけではなく、チョコちゃんを施設に保護しようとすると、母親は激昂して拒否する。 チョコちゃんも母親と一緒にいたがるので、無理に母親から引き離すこともできず、児童相談所も強く出ることができずにいるということだった。 そういう事情で、チョコちゃんを根本的に救うことは 行政にはできない。 皮肉なことだが、チョコちゃんに実母がいるからできないのだ。 チョコちゃんは、ナターシャとは違う。 チョコちゃんを 真の意味で救うことは、瞬たちにも できないことのようだった。 児童相談所が チョコちゃんの母親の連絡先を知っているはずなので、そちらに連絡を取ってもらい、 母親のところに戻すか、今夜は施設の方で預かるか,対応を決めることにする――と、慣れた口調で、女性職員は説明してくれた。 こういう時の対処方法も、既に確立しているらしい。 職員は、氷河とずっと手を繋いでいるナターシャを見て、 「同じ年頃の、同じ女の子なのにねぇ」 と、初めて事務的でない溜め息を洩らした。 ここまで対照的な、同じ年頃の、同じ女の子。 彼女は、さすがにチョコちゃんに同情を覚えたらしかった。 いずれにしても、実母がいるのでは、瞬たちには どうすることもできない。 「では、よろしくお願いします」 瞬は、チョコちゃんの対応に 異様なまでに慣れている女性職員に頭を下げた。 事務所を出る前に、チョコちゃんの様子を確かめようとして 彼女を眠らせたソファの方に目を向ける。 いつのまにか、チョコちゃんは目覚めていた。 ソファに座り、彼女と同じ年頃の 彼女と同じ女の子を、じっと見詰めている。 ナターシャが身に着けている綺麗な服、明るい瞳、パパとしっかり繋がれている手。 それらを じっと見詰めて、だが、彼女は何も言わない。 感情も読み取れず、何を考えているのかもわからない。 『ありがとう』も『助けて』も、口にしない。 チョコちゃんは、ナターシャを、別世界の住人を見るような目で 見詰めていた――ただ見詰めていた。 自分の境遇を悲しんでいるようではなく、自分を哀れんでいるようでもない。 何事かを感じたり 考えたりしては駄目だと、チョコちゃんは自分を律しているのかもしれなかった。 何事かを感じたり 考えたりすると心が傷付くと、過去に経験し、学習し、チョコちゃんは 用心しているのかもしれない。 おそらく そうなのだろう。 瞬は、そんな子供がいることが悲しかった。 「公園の前に大きな病院があるでしょう? チョコちゃんのママが おうちに帰ってこなくて、おなかがすいた時には、あの病院に行って、ピンク色の制服を着た人に、『瞬先生に会いにきた』って言って。病院は 病気を治すところだからね。おなか ぺこぺこの病気を治そう」 瞬にできるのは、チョコちゃんを助けたいと思っている人間がいることを 忘れないでほしいと願いながら、蜘蛛の糸を1本、チョコちゃんの手に握らせることだけだった。 “焼け石に水”という言葉が脳裏を横切っていったが、あまり効果のない水でも、全く与えられなければ 一時的な改善も見られず、悪化するだけである。 一滴の水が命を繋ぐこともあるかもしれない。 そうであることを信じて、瞬は自分にできることをするしかなかった。 いろいろな子供がいる。 瞬は、母の顔を知らなかった。 氷河は、自分の目で、母の死を見なければならなかった。 ナターシャには、実の両親は存在しない。 チョコちゃんは、実の両親が健在なのに、幸せな子供でいることができない。 昔、国境のない青い地球の写真を見て、『両親の顔を知らず孤児院に入れられるような不幸な子供が一人でも減るように、平和のために力を尽くしたい』と願ったことがあった。 あの頃は、親さえいれば 子供は幸せになれるのだと信じていた。 そのために強くなったのに、戦うことでは、不遇な子供たちを救うことはできないのだ。 その つらい現実を、こんな平和な日に思い知る。 瞬は悲しかった。 |