泡と本物






当時、日本はバブル景気の ただなかにあった。
金は腐るほどあり、金があることは力があることだと思い違いをした多くの日本人、日本企業が、世界の至るところで傲慢下品に振舞った。
それが必要だからではなく、あり余る金を使うために、金で、多くの国々の誇りを買い漁り、それらの国々の多くの人々の心を傷付けた。
多くの国々の誇り――それは、その国の象徴的な建築物だったり、伝統ある企業だったり、愛され続けてきた美術品だったりした。

バブル景気の終焉と共に、それらの多くは 元の国、元の持ち主、あるいは それに準ずる者たちの許への帰還を果たしている。
手許不如意になった日本の買い主(バブル企業)たちが、資金調達のために、それらを手離したのである。
もちろん、彼等のほとんどがバブル期の買い物で損をした。
バブル期に数千億円で購入したビルを、バブル崩壊後に 数百億円で売却。
バブル期に数百億円で購入した絵画を、バブル崩壊後に 数億円で売却。
その購入に関わった者たちの多くは、会社に大損害を与えた責任を取って、軒並み退陣。
破産して、その存在自体が消えてしまった企業も多く、自殺者も多く出た。
狂気の時代だったのだ、泡という名の あの時代は。


「それが、俺たちにどんな関わりがあるというんです。数千億円のビル、数百億円の絵が」
尋ねる氷河の声は苛立っていた。
かろうじて“ですます”調を保っているのは、尋ねる相手が 畏れ多くも知恵と戦いの女神アテナだから。
彼女の肩書が“グラード財団総帥”だけだったなら、彼は そもそも この招集に応じることすらしなかっただろう。
ナターシャの同席が許されていたら、面倒な話の相手は瞬に任せて、自分はナターシャと遊んでいられるのに、そのナターシャは 魔鈴とジュネのお手製ケーキという想像するだけで逃げ出したくなるようなものの味見を頼まれて、ダイニングルームで女子だけのお茶会に出席して――強制参加させられて、この場にはいなかった。

バブルの狂乱など、今は昔。
そんなものは、氷河には、江戸時代の元禄好景気レベルに昔の話だった。
それが現代に生きているアテナの聖闘士たちに、どんな関わりがあるというのか。
もし 今がバブルの ただ中であったとしても、地上世界の平和を守ることを第一義とするアテナの聖闘士には そんなことは無関係である。
沙織は、そんな昔話をするために、水瓶座の黄金聖闘士と乙女座の黄金聖闘士を、わざわざ城戸邸にまで呼びつけたのか。
世界の平和にも、ナターシャにも関係のないことは、氷河には ほぼ どうでもいいことだった。
どうでもいい物事のために、氷河は 自分の時間や労力を費やしたくはなかった。


「もうすぐ、あなたたちのところに辿り着くわ。あと少しだけ我慢してちょうだい」
畏れ多くも知恵と戦いの女神が、不機嫌な水瓶座の黄金聖闘士をなだめ、あやす。
瞬は、沙織に見えないよう、氷河の脇腹をつねった。
氷河が大人しくなる。
氷河とて わかっているのだ。
単に 歴史の話をするだけなら、沙織は氷河を この場に呼ばない。
瞬一人だけを相手にしていた方が、すべてがスムーズに進むに決まっているのだから。
にもかかわらず、この場に 氷河を同席させているということは、このバブル時代の話が 世界の平和かナターシャの身に関わることだからなのだ。
氷河は、“お口チャック”の技を自身に施した。

「当時、泡の資金力に ものを言わせて、ゴッホの“ひまわり”を50数億円で買った日本企業があったの。購入した企業や購入責任者の名前は出せないのだけれど」
購入した企業や購入責任者の名前を隠すことに、どんな意味があるのだろう。
購入責任者は知らないが、その絵を購入した損害保険会社の名なら、沙織に教えてもらわなくても、瞬は知っていた。
その企業の名を冠した美術館が、最近、至るところで、『本物の絵に じかに触れよう』だの、『本物の価値は子供にもわかる』だの、『本物の感動を子供たちに』だのと、やたらと“本物”にこだわったPR活動を打ち出していたのだ。

瞬の勤める病院の受付ロビーにも、名画を見ると病気が治ると言わんばかりの文章が書かれたパンフレットが置かれていたことがあった。
もっとも、そのパンフレットに印刷されている絵が、病気でナーバスになっている患者の不安を煽るという、来院者からのクレームや看護師たちの意見が()れられて、問題のパンフレットは すぐに撤去されてしまったが。
ゴッホのひまわりとは、つまり、そういう絵である。

「バブルが弾けてから、もちろん その絵を手離す話は幾度も出たらしいわ。でも、当時、その絵の購入を決めた御仁は――仮にGさんとして おきましょうか。ゴッホのGさん。Gさんは、『50億で買った絵を10億で売り払うから、40億の損金が出る。売り払わなければ損害も生じない』と言い張って、売却を勧める者たちに抵抗し続けてきた。どんなに経営が苦しくても、本物が日本にあることが、日本の文化芸術の振興に役立つのだと主張して、これまで なんとか踏みこたえてきた。『本物の価値は子供にもわかる』のキャンペーンには、あなたたちもどこかで接したことがあるのじゃないかしら」
「それは……どこかで見聞きした覚えがあるような、ないような……」

瞬の答えが妙に ぼやけたものになったのは、“本物”を日本企業の所持にしておくために奮闘している人がいるのに、『そのパンフレットは、うちの病院では 早々に撤去されました』という事実を告げるのは、気の毒なような気がしたからだった。
ゴッホのGさんが この場にいるわけではないのに。
そして、本音を言えば、瞬には、“本物の絵”と“本物でない絵”の違いすら わかっていなかったのであるが。

「ところが、半年ほど前、株式公開買い付けで、その企業の株式を30パーセント取得した米国企業が送り込んできた米国人常務が、最高経営会議で、その絵の売却を強硬に主張して、Gさんと対立。それがどういうわけか、いつのまにか、子供にゴッホの絵の価値がわかるはずがない、いや わかる――という論争に発展してしまったのね」
「は……?」

『子供にゴッホの絵の価値がわかるはずがない』 『いや、わかる』――それは、いわゆる“売り言葉に買い言葉”という状況だろうか。
最高経営会議というと、企業のトップによる最終意思決定の場だろうに、まるで小学生の学級会のような活発さ(?)である。
案外、今時は、小学生による学級会の方が、教師の意向に沿おうとする子供ばかりで、意見の一つも出ず、静かなのかもしれない。
なにしろ 大企業の最高経営会議も 小学生の学級会も、瞬にとっては異世界での出来事だったので、瞬は つい のんびりと そんなことを考えてしまっていた。
が、沙織の話は、異世界どころか、いよいよ山場に(瞬たちの生きている世界の山場に)差し掛かってきたところだったらしい。

「それで、対立し合う二人は、実験をすることにしたの。50億円の名画は 子供たちにとっても名画なのか、子供たちにも その価値がわかるのかを、確かめる実験を。入場料を払わなくていい場所、たくさんの子供たちの目に触れる場所に、問題の絵を展示し、子供たちが その絵の価値を認めるか、その絵に感動するか、実験することにした。実験の場所は、光が丘公園内 光が丘図書館の児童図書室脇の展示コーナー」
「は……?」
超巨大企業の最高経営会議と小学生の学級会が、一瞬で 光が丘に光速移動してきた――ような錯覚を、瞬は覚えたのである。
数百億、数千億の金を、軽い気持ちで(というわけでもないだろうが)動かしている経済界の大物たちの考えることが、瞬にはまるで理解できなかった。






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