「冗談でしょう? あそこの展示コーナーは――」
光が丘図書館の児童図書室脇の展示コーナー。
そこは、瞬たち一家には お馴染みの場所だった。
東京都立光が丘公園内にある、練馬区立光が丘図書館。その中にある児童図書室。
図書館の入り口から児童図書室のドアまでの廊下の壁が、長さ20メートルほどの展示コーナーになっている。
展示されるのは、主に 児童図書室を利用する未就学児童たちの手に成る絵や折紙作品など。
その展示コーナーは、光が丘公園に遊びにやってくる子供たちの一部には、非常に有名な観光スポットだった。

展示コーナーに展示される作品は月ごとに変わり、展示月の前月に、図書館で 募集作品の お題の告知がある。
1月は、“エルマーとりゅうの絵”、2月は“カラスのパン屋さんに作ってもらいたいパンの絵”、3月は“ガマくんとカエルくんの絵”、4月は“お花見の絵”といった具合い。
毎月の絵の展示に応募するために、本を借りる子供も多い。
現に、“ガマくんとカエルくんの絵”を描くために、ナターシャは、光が丘図書館の児童図書室に揃っていたアーノルド・ローベルのガマくんとカエルくんシリーズを全冊 読破してのけた。

ナターシャは、展示コーナーの常連だった。
商品や賞金が出るコンテストではなく、図書館を利用する ご近所の子供たちによる、ささやかな恒例行事。
応募作品は、特段の問題がない限り すべてが展示されるのだが、“いい”作品は、リボン付きで目立つところに飾ってもらえるのだ。
5月のお題は“お母さんの絵”、6月のお題は“お父さんの絵”。
ナターシャは力作を応募して、その絵は展示コーナーの中央に飾られ、ナターシャは得意満面。
5月と6月は、各月に10回は 展示コーナーの巡回に行っただろうか。
展示コーナーの存在を知ってから、ナターシャは、光が丘公園に遊びに行った時には必ず図書館に立ち寄るようになっていた。
児童図書室には、保育士の資格を持つ司書がいるので、子供たちが図書室で本を読んでいる間、その保護者たちは 自分の調べものをしたり、買い物に出たりもできる。
光が丘図書館の児童図書室は、絵本好きの児童はもちろん、その保護者たちにも非常に有難い施設となっていた。


光が丘公園にやってくる一部の子供たちには大人気の恒例イベントが、そういえば今月は いつもと様子が違っていた。
いつもは6月に入ると、7月募集分のお題の告知があるのだが、それがなかったので、7月は展示コーナーがお休みなのかもしれないと、瞬はナターシャと話していたのだ。
7月に入ると、そこには 子供たちの作品ではない七夕飾りが飾られ、だから 7月は絵の募集がなかったのだと得心していた。
七夕が終わった頃、そろそろ8月の募集のお題の告知が出ているかもしれないと考えて、図書館に確認に行ったところ、七夕飾りが外された展示コーナーに飾られていた七夕飾りは外され、代わって そこには、十数枚の ひまわりの写真が貼り出されていた。
お題を告知して 作品を募集しても、七夕飾り展示のために、一ヶ月丸々 展示することができないので、こういうイレギュラーな対応をしたのだろうと、瞬は勝手に納得していたのだ。

改めて思い返してみると、ひまわりの写真が貼られた展示コーナーの中央に、大きなひまわりの絵があったような気がする。
あれが そうだった――のだ。
と わかって、瞬の顔は 僅かに強張った。
「ナターシャちゃんは、今月は ほとんど展示コーナーを見に行っていなかったんです。自分の絵も お友だちの絵も飾られていないのに、見に行っても楽しくなかったらしくて……」
それは、どんな嘘も混じっていない、正真正銘の事実にして真実だったのだが、同時に、自分が50億円の名画に気付かなかったことへの 言い訳でもあったかもしれない。

展示コーナーに ひまわりの写真が貼られていたことは覚えているのだから、瞬は その絵を見たはずだった。
見たら、ゴッホのひまわりだということは わかるはずである。
にもかかわらず、その絵のことを ほとんど憶えていないということは、瞬は“本物”の名画を見たのに、本物がこんなところにあるはずがないと決めつけて、いっそ鮮やかに“本物”の前を通り過ぎてしまったということ。
“子供にゴッホの絵の価値が わかるか否か”以前、大人である瞬には、“本物”の価値がわからなかった――ということなのだ。

「でも、そんな名画が展示されているのなら、もう一度 見に行ってみますね。ナターシャちゃんが、本物の絵に どういう反応を示すのか、確かめてみたいですし」
こうなったら、無垢な子供の鋭敏な感受性に期待するしかない。
きまりの悪さを紛らせるための苦笑を浮かべて、瞬が そう言うと、沙織は ひどく残念そうに首を左右に振った。

「それは無理。残念ながら、今はもう、光が丘図書館の展示コーナーで 本物を見ることはできないわ」
『今はもう、光が丘図書館の展示コーナーで 本物を見ることはできない』というのは、実験の結果が出て、“本物”は自宅に帰ったということか。
だとすれば、おそらく“本物”の価値は、子供どころか大人にもわかってもらえなかったのだろう。
“本物”に気付いて感動した大人が一人でもいたなら、“本物”が 光が丘に遊びに来ていたことは、リアル世界なりネット世界なりで相当の騒ぎになっていたはずである。
だが、そんな騒ぎは、光が丘界隈でもSNSの中でも起こっていなかった。
その悲しい実験結果の一翼を担って(?)しまった責任を感じて、瞬は、“本物”の価値を信じていたのだろう ゴッホのGさんに 心の中で詫びてしまったのである。

「そ……それはそうですよね。50億円もする絵を、あんな ほとんどセキュリティシステムもないようなところに、いつまでも展示しておくことができるわけがない。実験は終わったんですね。……残念な結果で」
「あ、そういうことではないのだけど……」
珍しく、沙織が言い淀む。
肩で盛大に溜め息をついてから、彼女は、本物の名画に何が起こったのかを 瞬たちに教えてくれた。

「その絵は盗まれてしまったの」
「……」
瞬は、思わず息と声を呑んだ。
光が丘図書館の展示コーナーに 50億円の名画を飾る実験の話を聞いた時、あんな無防備な場所に そんな高価な絵を置いて大丈夫なのだろうかと、いの一番に心配したのに、その可能性に とんと考え及ばずにいた自分自身に呆れて。
“本物”の価値に気付いた者はいたのだ。
そして、本物の価値に気付いた その人物は、“本物”が 手をのばせば届くところにある千載一遇のチャンスを有効利用せずにいるほど、大人しく善良な人間ではなかった――のだ。

“本物”の名画の所有者は、某損害保険会社である。
より正確に言うなら、某損害保険会社の名を冠する美術館である。
本物はおそらく、今回の事件に際して、盗難保険には入っていないだろう。
自社の保険に入って、盗難被害に遭うのも自分、保険金を払うのも自分では、保険の意味を成さない。
そして、他の損害保険会社が そんな馬鹿げた保険を引き受けるはずがなかった。
そんな状況下で、50億円の名画は、見事に盗まれてしまったのだ。






【next】