瞬は、朝早くから 馬鹿兄のために 変態神に祈りを捧げていたっていうのに、当の一輝は、今頃 起き出して、飯を食おうとしているところだった。 俺の瞬を こんなに悲しませ苦しめているのに、ふざけるにも ほどがある。 「健気な弟の幸せを邪魔する大馬鹿最低兄貴め! さっさと死んで、瞬を自由にしろっ」 どんなに馬鹿で阿呆の ろくでなしでも、一輝は一国の王。 朝っぱらから案内も乞わずに 一国の王の許に押しかけて怒鳴り散らす俺に、一輝はかなり腹を立てたようだった。 だが、奴が いかに大馬鹿で ど阿呆なのかを、俺が まくしたててやると、さすがの ど阿呆も 少しは反省したらしい。 「瞬が俺のせいで――」 事情を知った上で何の手も打たずにいたのなら、史上最低の兄貴だと思っていたんだが、一輝は そのあたりのことに 全く気付いていなかったらしい。 たとえ 瞬が知らせずにいたとしても、普通は何か おかしいと 奇異に思うものだろうに、一輝は、死んだはずの自分が生き返っていることを毫も不思議に思わなかったらしい。 一輝の愚鈍もさることながら、そんな男が瞬の兄だということに、より立腹して、俺は 問答無用で、一輝を、エティオピア王宮の ご立派な食堂から万神殿の地下広間に引っ張っていったんだ。 「氷河、何するつもりなの。どうするつもりなの。ハーデスとの契約は 僕が勝手にしたことで、兄さんには どんな責任もないことなんだよ。神との契約は撤回も変更もできない。兄さんは、今は 自分の名誉より国の民の幸福を第一に考える慈愛に満ちた国王で、エティオピアの国には なくてはならない存在で――氷河、落ち着いて。これは もう、どうにもならないことなんだよ」 激昂する俺の横で おろおろしながら、瞬が必死に兄の弁護に瞬を 俺のものにするための活動を 本腰を入れて努めていたが、その気になれば いくらでも俺に抗する術を持つ一輝が、大人しく(かなり不本意そうにではあったが)俺に引きずられるままだったのは、瞬の不遇に関して 自分に非と責任があることを、一輝が認めていたからだったろう。 全くもって、その通りだ。 すべては、瞬の兄が馬鹿だったせいだ。 馬鹿な兄の代わりに、瞬が犠牲になる必要はない。 俺は、万神殿の地下に下り、ハーデス像のないハーデスの祭壇に、瞬の兄の身体を殴り倒すように、叩きつけた。 「ハーデス! 謹んで、生贄を捧げる。こいつの命を返上するから、馬鹿げた束縛から、瞬を解放しろ! 速やかに、瞬に、俺と恋する自由を返せっ!」 もともと そういう運命だったんだ。 本当なら、とうの昔に 瞬の兄の命の火は消えていた。 一輝は、健気な弟の幸福のために、本来の運命に従って、とっとと死者の国に行くべきだ。 仮にも地上の愛と平和と正義を守るために戦うアテナの聖闘士になったほどの男。 そのあたりの道理は わきまえているだろうと思っていたのに―― 一輝の奴、この期に及んで、正義と道理に真っ向から刃向かってきやがった。 祭壇の脇で態勢を立て直し、馬鹿兄貴は、なんと この俺を睨みつけてきやがったんだ! そして、見苦しく 命乞いを始める。 「我が最愛の弟の幸福のためになら、俺は、この命、ハーデスにでもアテナにでも すぐさま 喜んで差し出す。だが――だから、自分の命が惜しくて言うわけではないが、恋などしなくても、人間は生きていける。何も無理に恋などしなくても、瞬は、一生、清らかなまま、俺の側にいればいいんだ。瞬の命と幸福は 俺が責任をもって守り抜く――」 「きっさまーっ」 『何も無理に恋などしなくても』とは何だ、『何も無理に恋などしなくても』とは! まるで俺が、瞬に恋することを強いているような言い草じゃないか。 恋を強いるなんて、そんなこと できるわけがないのに。 往生際の悪い瞬の兄に、俺が殴りかかっていこうとしたら、一輝の奴、本音を吐きやがった。 「その相手が、おまえだなんて、おかしいだろうっ!」 は !? つまり、一輝は、俺が瞬に恋されているのが気に入らないわけか? 見苦しい男の嫉妬? ふん。残念だったな。 いったい 俺の何が気に入ったのかは 俺にもよく わからんのだが、どうやら瞬は俺に恋してくれてくれているようなんだ。ざまあみろ。 あとは、瞬を苦しめ続けてきた馬鹿兄貴が 速やかに冥界に行って、瞬がハーデスの呪縛から解放されれば、めでたしめでたし。 さあ、潔く、今 ここで死んでくれ、一輝! どうしても 自分では死ねないというのなら 俺が力を貸してやろうとばかりに、俺が準備運動(ダンス)を始めた時だった。 「瞬の兄の命など捧げられても、余は瞬を手離すつもりはないぞ」 という得体の知れない声が、万神殿の地下広間に響いてきたのは。 「憎しみを知らず、妬みを知らず――瞬は、余の理想通りに育ってくれた。余の魂の器となるに ふさわしい清らかさ、美しさ。余の魂を その身に受け入れた瞬は、この地上世界を征服し治める、地上世界の王となるのだ」 「なにっ」 得体の知れない声の主の“得体”は、考えるまでもなく、すぐにわかった。 冥府の王ハーデス。 “一輝の命”なんて 二束三文の値しかつかないガラクタで、“瞬の恋心”という、世界に二つとない貴重な宝石を ちゃっかり手に入れた。空前絶後の大詐欺師だ。 その大詐欺師が、今、何か ふざけたことを言ったぞ。 瞬の身体がハーデスの魂を受け入れて、地上世界の王となるとか何とか。 こいつは詐欺師の分際で、何を言っているんだ? 一輝だけでも十分 大きな邪魔なのに、神である こいつまでが、俺と瞬の恋路を邪魔するつもりなのか? 冗談じゃないぞ。 瞬の仕事は、未来永劫“俺の恋人”一択だ。 だいたい、地上世界を支配するなんて、(一応)アテナの聖闘士である俺が許すわけにはいかん。 それも 瞬の身体を使って――とは 言語道断だ。 冥府の王なら、寝言は死んでから言うべきだ。 俺の怒りの対象が、瞬の兄から冥府の王ハーデスへと速やかに移動していったのは、一輝よりハーデスの方が 俺の瞬にとって より直接的な脅威で、より大きな災厄で、優先的に排除されるべき障害に思えたからだ。 だが。 冥府の王ハーデスは、声はすれども姿は見えず。まるで屁のような存在だ。 どこに向かって攻撃すればいいのかも わからないし、どこに向かって怒鳴ればいいのかも わからない。 それは、一輝も瞬も同様のようで、二人も屁をこいた神の居場所を求めて、地下広間のあちこちに視線を投じていた(いや、瞬は、屁っぴり神なんて、そんな ふざけたものを探してはいなかったと思うが)。 声だけがして姿の見えない屁っぴり神ハーデスは、姿がないのをいいことに、言いたいことを言いたい放題だ。 「言っておくが、瞬の兄の命など、余はいらぬぞ。神との契約は、その契約を結んだ神自身にすら覆すことの許されぬ神聖なもの。瞬は、兄の命と引き換えに、生涯 恋をせず、その清らかな心身を余に捧げることを、余に誓ったのだ」 「だ……だが、瞬は貴様の地上支配に協力することを誓ったわけではないだろう!」 俺は食い下がったが、 「その通りだ。余の力をもってしても、人間を一人、清らかな心の持ち主に育てあげることは不可能だ。しかし、清らかな心の持ち主の身体を支配することは、子育てより簡単。瞬は余のものだ」 声は聞こえるのに姿は見えない屁のような神が、瞬の身体をのっとろうとしている。 そう感じて、俺は――そして、瞬の兄も、瞬をハーデスの見えざる手から守ろうとしたんだ。 おそらく、俺たちのしたことは、ハーデスにどんな影響も及ぼさなかったろう。 悲しいかな、俺たちは 所詮、神ならぬ身の人間だ。 だが、瞬は、ハーデスに奪われることもなかったんだ。 ハーデスの暴挙を止めてくれたのは、なんと、知恵と戦いの女神アテナだった。 「神との契約は、その神と契約を結んだ神自身にも覆すことの許されぬ神聖なもの。瞬は、兄の命と引き換えに、一生 恋もせず 清らかなままでいることを、あなたに誓った。その契約はもちろん、守られなければならないわ。けれど、その前提が成立していなかった場合はどうなるのかしら?」 声はすれども姿は見えず。 まるで屁のような その女性の声がアテナのものだとわかったのは、 「アテナ……!」 というハーデスの呟き――というより、むしろ舌打ち――のせいだった。 アテナの聖闘士になったといっても、俺は直接 アテナから聖衣を授けられたわけじゃないし――アテナはアテナ神殿の奥に時折 光来することがあると話に聞いたことがあるだけだったから、これがアテナとの初めての出会い、初接触だ。 アテナは――声だけだが――何というか、思っていたより お茶目な印象だった。 若いんだか、歳を食っているんだか、判断の難しい声。 その声が聞き捨てならないことを言った。 「前提が成立していなかった――とは、どういうことだ」 俺は アテナ(の声)に尋ねたつもりだったのに、答えは ハーデスの方から返ってきた。 しかも、色々なことを省略して、一足飛びに。 「わかった。瞬は自由だ。恋でも何でも、好きにするがよい」 と。 「は?」 望み通りの結末を手に入れたのに、何が何だか わからなくて、俺は すぐには喜ぶことさえできなかったんだ。 ハーデスに、もっと わかりやすい答えを要求しようとしたんだが、俺が そうしようとした時にはもう、万神殿の地下広間からハーデスの気配は綺麗さっぱり消えてしまっていた。 「ど……どういうことだ――いや、どういうことなんです」 ハーデスの屁が消えてしまったら、俺は もう一つの屁――もとい、麗しき我等が女神に 事情を尋ねるしかなかった。 さすがは知恵の女神というべきか。 アテナの説明は実に簡潔で、非常に わかりやすかった。 曰く、 「一輝がスパルタとの戦いで敗走した時、一輝は死に瀕しただけで、死んだわけではなかったのよ」 ハーデスは、まだ死んでいなかった一輝の命を助けるために、瞬に 清らかであり続けることを約束させたんだ。 清らかな瞬の心と身体を使って、地上世界を支配することを目論んで。 一輝は、しかし、死んでいなかったし、死ぬ運命でもなかったのだろう。 兄の身を案じる瞬の心につけ込んで――ハーデスは、正真正銘、稀代の大詐欺師だったんだ。 |