みつばちのリボン






東京は、今日も発狂したような暑さだった。
梅雨が明けてから 毎日ずっと、テレビの天気予報は、前日 熱中症の症状で病院に救急搬送された人数報告から始まるようになっている。
ナターシャにも、お昼から3時頃までは外出を控えるように、どうしても外出しなければならない時は必ず帽子をかぶること――という厳命が、マーマから下されていた。

ナターシャは もちろん、マーマの言いつけを守る いい子である。
なにしろ パパは日に焼けて真っ黒な肌より、白い肌の方が好きなのだ。
パパが はっきり言葉にして そう言ったことはなかったが、どんなに暑い日でも あれこれ理由を こじつけてはマーマに触れたがるパパの態度からして、それは明白。
マーマの言いつけには、守るだけの価値があった。

そんなふうに マーマの言いつけを守る いい子のナターシャが、7月のある日、光が丘公園で その老婦人を見付けたのは、であるからして、一日で いちばん暑い時間が過ぎた午後5時を少し まわった頃のことだった。
ナターシャは、当然のことながら、マーマの言いつけを守って、瑠璃色の忘れな草を象ったコサージュのついた帽子着用。
夕方だからと油断して 紫外線対策を怠ると、大変なことになるのだ(とはいえ、ナターシャは マーマが紫外線対策をしているのを見たことはなかったが)。



その日、瞬は 非番だった。
非番といっても、休みではない。
都心のホテルで開催された研究発表会に出席するために直行直帰。
帰宅は、通常の日勤より早めになった。
なので、マーマの言いつけを守って 外に遊びに出ずにいたナターシャの運動不足解消のために、職場に向かう氷河を駅まで見送りがてら、皆で散歩に出たのである。

ここのところずっと関東は好天続き。
天気が よすぎるせいで、ナターシャのパパとマーマは 彼女に長時間 外にいることを許可できなかった。
活動的なナターシャには、“思い切り外を走りまわれない お天気の日”が かなりのストレスだったのだろう。
いつもはパパとマーマと手を繋ぎたがるナターシャが、今日は 身体を動かすこと 最優先。
だから――そういう事情があったから――その日 その時 その老婦人を最初に見付けたのは、子鹿が跳ねるように 二人の前をスキップで進んでいたナターシャだったのだ。

「マーマ!」
こういう時、頼りになるのはパパよりマーマ。
ナターシャは、スキップではなく駆け足で瞬の許まで戻ってくると、瞬の手を握りしめて、彼女が見付けた異変の場所まで、瞬を引っ張っていった。
遊歩道脇のベンチの足元に、白髪混じりの小柄な女性が仰向けに倒れている。
脇に大きめの鞄が一つ。
年齢は70を越えたくらいだろうか。
意識を失っており、呼吸が不規則。
汗は全く かいていないが、顔が真っ赤で、腕も真っ赤。
「おばあちゃん、大丈夫?」
心配そうなナターシャの呼び掛けにも、無反応。
肌に触れて体温を確認するまでもなかったが、触れて確実になった。

「多分、熱中症。僕、病院に運ぶ」
暗に『氷河は仕事に行って』と告げたつもりだったのだが、瞬が倒れている老婦人を抱き上げる前に、氷河が その仕事に取りかかっていた。
「おまえは、鞄の方を。それは、ナターシャには無理だ」
「そうだね」
氷河の判断に同意し、瞬は 老婦人のものと思われる大きな鞄を左手に持ち、右手でナターシャの手を取った。

「ナターシャちゃん、おばあちゃんを病院に運ぶから、お散歩の続きは あとでね」
「ウン」
子供や老人にとって 熱中症が どれほど危険な病気なのか、ナターシャには常々 教えてある。
老婦人の病名を知ったナターシャは、緊張した面持ちで頷いた。
光が丘公園の出入り口の真正面にある光が丘病院まで、老婦人を見付けた場所から 徒歩3分。
病人を運ぶ手段があるのなら、救急車を呼ぶのは無意味無駄な距離だった。



「瞬先生? 今日は研究会で直帰予定だったのでは?」
救急室の看護師が、なぜ自分の名や顔だけならまだしも、勤務予定までを知っているのだろう?
という素朴な疑問は、ともあれ 彼女が 光が丘病院に100名以上在籍している医師たちの顔を(全員ではないのかもしれないが)知っていてくれて助かった――という気持ちに上書きされ、打ち消された。
おかげで、IDカードを持ってきていなかったにもかかわらず、瞬は顔パスで救急室に入れてもらうことができたのだ。

「公園で倒れているのを見付けたんです。急いだ方がよさそうだったので、直接 搬送しました。呼びかけには無反応。体温は40度以上。大きなボストンバッグを持っていらしたので、旅行者かもしれません」
「今日も多いんですよ」
瞬の報告を聞いた看護師が、そう言って頷く。
省略されているのは、『熱中症で運ばれてくる人間の数が』だろう。
ストレッチャーも足りていないようだったので、瞬は そのまま氷河に、患者を救急室のベッドエリアまで運んでもらった。

「ナターシャは、俺が連れていこうか?」
「患者さんの発見者ってことで、付き添いを許してもらうよ。ナターシャちゃん、静かに いい子にしていられるよね?」
「ナターシャは、マーマのお仕事の邪魔したりしないヨ! パパは安心して、お仕事 行って!」
パパとマーマがアテナの聖闘士で、しかもマーマは医師兼務。
娘のナターシャは、嫌でも緊急事態に慣れ、滅多なことでは動じなくなる。
ナターシャは、パパとマーマが何を案じているのかを察して、最も 本来の予定から逸脱しない道を選び、瞬たちに提案してきた。

氷河が、幼い娘の賢明と聡明に満足したように、唇だけで微笑する。
ナターシャは、瞬も舌を巻くほど“氷河の気に障ることをしない”才能に恵まれた少女だった。
氷河が なりだけは大きい我儘な子供のような大人だから、ナターシャの方が大人になってしまったのかもしれない。
お利口で いい子のナターシャには、瞬も 毎日 助けられていた。

「落ち着いたら、帰れると思うから」
猛暑日の救急医療現場は慌ただしい。
氷河は瞬に浅く頷き、一度 ナターシャの頭に手を置くと、救急隊員と医師と看護師で ごった返す救急室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、先ほどの看護師が、
「相変わらず、クールでかっこいいですね」
と、瞬に囁いてくる。
体内冷却用のカテーテルを準備する手を止めないところは立派(当然)だが、『相変わらず、クールでかっこいい』と言われても、瞬は彼女に氷河を紹介した記憶がなかったし、それ以前に瞬自身が彼女を知らなかった。

氷河は目立つ男なので、どこかで一方的に見知られて(?)いるのだろう。
それで、勝手に知り合い済みと思われるのは 少々 危険なのではないかと思わないでもなかったのだが、にもかかわらず、瞬が 彼女に何も言わなかったのは、“こんなに忙しそうなのに パパを褒めてくれる看護師さん”に、ナターシャが好意を抱いたようだったから。
パパを褒められて ご機嫌なナターシャは、忙しい医師や看護師たちの邪魔にならないようにしなければならないと考えたのだろう。
瞬が そうするように言う前に、ナターシャは、
「ナターシャ、待合室で待ってるネ」
と言って、静かに、走らず、だが 素早く、廊下に出ていった。
彼女は、本当に よくできた娘だった。






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