三ツ橋夫人が 再び 光が丘病院を訪ねてきたのは、お盆の帰省ラッシュが終わり、児童生徒学生の夏休みは続いているが、大人たちはすっかり日常の生活に戻った、8月下旬のことだった。
一般外来の診療は終わり、待合室には 入院患者や見舞客の姿が ぽつぽつある程度の時刻。
旅行用の大きなバッグではなく、小さな外出用のハンドバッグを肘に掛けているだけの身軽な様子。
荷物だけでなく表情も声も軽く、彼女は、受付の女性職員に来院の用件を告げた。

「先月、こちらの病院に入院しておりました三ツ橋と申します。瞬先生と ご家族の方に親切にしていただいたので、お礼をと思いまして」
「瞬先生と ご家族の方に?」
「はい。あの、はちみつの日のイベントの写真を送っていただいたので、そのお礼を申し上げたくて」
「あ、もしかして、ナターシャちゃんの みつばちリボンのおばあちゃんですか !? 」

彼女は、その職員の顔に見覚えがなかった。
職員の方も、彼女を直接 知っているのではないのだろう。
その呼び方が『みつばちリボンのおばあちゃん』なのでは。
面識がないのに、みつばちリボンのことは知っている。
それは つまり、光が丘公園で開催された みつばちの日のイベントに彼女も出掛けて行き、みつばちのリボンをつけたナターシャちゃんが ぶんぶんぶんを歌うのを見聞きしたから。
“みつばちリボンのおばあちゃん”が作ったみつばちリボンが、それほど 好評を博したから――なのだろう。

みつばちの日のイベントが盛況だったことは、瞬に送ってもらった写真のおかげで わかっていたが、こうして改めて、実際にイベントに参加した人からの言葉を貰えるのは、とても嬉しい。
“みつばちリボンのおばあちゃん”の唇からは、つい笑みが零れた。
彼女自身は、先月 光が丘病院に入院していた時より5キロも痩せて、白髪もかなり増えていたのだが、今日 初めて“みつばちリボンのおばあちゃん”に会った職員には そんなことはわからない。
職員の女性は、カウンターの向こう側で 掛けていた椅子から立ち上がり、困ったように“みつばちリボンのおばあちゃん”を見詰めてきた。

「あいにく、瞬先生は、他の病院からの要請を受けて出掛けてらして、今日は こちらには戻らない予定なんですよ」
「ご自宅を教えていただくことは――」
「ちょっとお待ちください。規則で、医師や看護師の住所を勝手に お教えすることはできないんですが、電話で連絡を取ってみますので」
「すみません……」

勤務医が勤務している病院に常にいるとは限らないという、考えるまでもないことを、彼女は考えていなかった。
想定外の事態に戸惑いながら、彼女は、受付フロアの奥の電話で 瞬の出先の病院か瞬の携帯電話に連絡を入れてくれているらしい職員の動向を、不安な気持ちで見守ることになったのである。
せっかく上京してきたのに、今日 ナターシャちゃんに会えないと、予定が狂う。
瞬やナターシャの予定は考慮していなかったのに、彼女は そんなことを思っていた。
10分以上の時間が経ってから、職員の女性が受付カウンターまで戻ってくる。

「お待たせして、申し訳ありません。瞬先生は いらっしゃれないんですが、ナターシャちゃんのパパが、こちらに迎えにきてくださるそうです。お会いになったことがありますよね? 今日は、ナターシャちゃんも、瞬先生のご友人のお宅に 出掛けているんだそうで――。でも、三ツ橋さんは、ナターシャちゃんに会わずに帰るなんてことはできませんよねぇ」
「あ、はい……」
みつばちリボンの経緯を、職員は知っているのだろう。
彼女は、“みつばちリボンのおばあちゃん”とナターシャの橋渡しができてよかったというように、少々ふくよかな顔に安堵と満足の笑みを浮かべていた。

「共働きの家庭で小さな子供を育てるのは、お勤めの時間が毎日 決まっている普通の家でも大変なのに、医師や看護師は 勤務時間が不規則ですからね。ナターシャちゃんのところは、パパも夜のお仕事で、標準的な おうちとは違う苦労があるみたい。その分、瞬先生には協力者が いっぱいいますけどね。ええ、そちらにお掛けになって待ってらしてください」
「……」

私の娘には“協力者が いっぱい”どころか、夫も力を貸してくれなかった。
それは、娘に人徳がなかったからなのか。
誰にも頼れなかった娘の落ち度なのか。
『自分のことは自分で』と躾けた親の責任か。
なぜ娘は、実の親にすら頼り甘えてくれなかったのか。
親の方が もっと積極的に口出しすべきだったのか――。

人気のない病院の待合室で、彼女は そんなことを考えていた。
考えては否定し、否定しては再び考えることを繰り返していた。
20分ほど待ち、氷河が光が丘病院の待合室に姿を現わした時には、『そんなことは 今更考えても詮無いこと』という結論に辿り着いていたが。






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