Homo Faber - 工作人 -






おまえらに相談するのは、俺は 極めて不本意なんだ。
氷河は、まず そう言った。
人様に相談事を持ちかける側の分際で、その前置きはどうなのだと、当然、星矢と紫龍は思った。
だが、星矢たちは、『なら、無理に相談などしなくていい』と言って、席を立つわけにはいかなかったのである。
星矢の場合は、そうするには あまりにも 好奇心が旺盛すぎたから。
紫龍の場合は、氷河の相談事が 氷河一人だけの問題で済まなかった時のことを――特にナターシャに影響が及ぶ問題だった時のことを――危惧するから。

星矢は、氷河と瞬とナターシャの家庭の事情話を聞くのが好きだった。
なにしろ、糞真面目な顔をして ナターシャに振り回される氷河が阿呆すぎて、馬鹿すぎて、楽しすぎるのだ。
たとえ、仲間たちに相談を持ちかけようとしている氷河当人に、『おまえらは 相談事を持ちかけるには頼りなさ過ぎる』と断じられても、阿呆な氷河の話は聞きたい。
だから 星矢は、相談を持ちかけるために、相談を持ちかける相手を わざわざ押上の店まで呼びつけた上、相談を持ちかける身でありながら、相談を持ちかける相手に不平不満を垂れ流す氷河に 文句も言わずにいたのだった。
ちなみに、紫龍が無言なのは、氷河の相談事の内容を聞かないことには、そもそも氷河の相談に乗る必要があるのかどうかの判断すらできないから――である。
つまり、彼は、氷河の相談事が氷河一人だけの問題で、ナターシャや瞬に関わりのないことなら、そのまま帰宅するつもりでいた。

幸か不幸か(星矢にとっては幸で、紫龍にとっては不幸だったろう)氷河の相談事はナターシャに関わることのようだった。
『おまえらに相談するのは、俺は 極めて不本意なんだ』に続く前振りが、
「本当は この件の相談相手には シャイナあたりが 最適なんだが、あいにくシャイナは岩手在住だし、何といっても 彼女はナターシャのことを知らないからな」
であるところから察するに。

「正直に『恐い』って言えばいいのに」
仮にも黄金聖闘士に言っていいセリフではないが、星矢は それを絶対に あり得ないことだとは考えていなかった。
力ある者が 自分より力の劣る者を恐れないとは限らない。
黄金聖闘士が白銀聖闘士を恐がらないとは限らない。
瞬は地上最強の黄金聖闘士の一人だが、体長5センチほどのタガメが苦手だった。
幼い頃に見たタガメの捕食の様がトラウマになっているらしい。
氷河が、
「恐いわけではない。アルデバランは恐くないんだろうかと思うだけだ」
という、実に微妙な答えを返し、カウンターの中で ついと横を向く。

「アルデバランの方は逆に、おまえは瞬が恐くないんだろうかと思っているのかもしれんぞ」
紫龍は 一応 冗談のつもりで言ったのだが、氷河の答えは 今度も微妙だった。
彼は、
「恐くても、好きなものは仕様がない」
と答えてきたのだ。
「瞬も恐いのかよ!」
いったん 呆れて 素頓狂な声を上げてから、星矢は、人が(人に限らず、あらゆる生物が)自分より強いものを恐がるのは当然のことだと思い直した。
氷河が瞬を恐がるのは 至って自然なことなのだ。
氷河が本当に瞬を恐がっているのかどうかという問題は さておいて。


「あー。で、本当はシャイナに相談したいけど、不本意ながら俺たちに相談する相談事ってのは いったい何なんだよ?」
さておかずに追及し始めると ややこしい事態を招く問題は さておいて、閑話休題。本題突入。
星矢に促された氷河が、それこそ 不本意の極みといった(てい)で、彼の仲間たちに披露した“本題”は、瞬の恐さ問題に勝るとも劣らない超難題だった。

「ナターシャには ちゃんとした母親が必要なのではないかと、瞬が言い出したんだ」
「なに?」
氷河の相談事を聞いた星矢と紫龍は、二人共、ほぼ同時に、つまり ほぼ反射的に、“ちゃんとした母親”とはどういうものなのだろう? と思った。
同じことを、氷河も思っていたらしい。
生半可でない怒りの感情と共に、そう思っていたようだった。
氷河の口調が急に荒ぶり始める――声の音量が大きくなり、抑揚の幅が大きくなり、喋るスピードも速くなった。

「そもそも“ちゃんとした母親”というのは何だ !? どういうのが“ちゃんとした母親”なんだ !? 瞬は ちゃんとしていないとでもいうのか? 100万歩譲って、瞬が“ちゃんとした母親”でないのだとしても、瞬はそこいらに転がっている“ちゃんとした母親”なんかより はるかに綺麗で、はるかに優しく、はるかに強くて、はるかに賢く、ついでに経済力も医学の知識も備えた超優秀なマーマだぞ!」
氷河が 彼の娘のために必要としているものは、“ちゃんとした母親”などではなく、“地上世界で最も綺麗で優しいマーマ”である。
そして、彼は、彼が必要としているものを 既に手に入れていた。

「母親としても マーマとしても、瞬は最高レベルにあると、俺は思っている。母親としての能力、知識、強さを備え、マーマとしての愛情も美貌も最上等、最上質、人類トップクラス。瞬は、これ以上を望むべくもない最高の母親、理想以上のマーマだと、俺は思っている。なのに、なぜ急に 瞬は あんなことを言い出したんだ!」
「なぜ、そんなことを――って……」
さすがは氷河と言うべきなのだろうか。
『相談したいことがある』と言って 仲間を自分のテリトリー内にまで呼びつけておきながら、なぜ瞬が そんなことを言い出したのかさえ 掴めていないとは。
呆れて言葉に詰まってしまった星矢のあとを、もちろん彼も呆れ返りつつ 紫龍が引き継ぐ。

「普通は、そこを掴んでから“相談”するものではないか? 原因がわかっていないのでは、相談を持ちかけられた側の人間も、解決策を講ずることはできない」
紫龍の指摘は至極尤も、間違いなく正論である。
だが、『氷河に 正論が通じるわけがない』というのもまた、正論なのだ。
世間の常識では、相談とは『問題の解決のために話し合ったり、他人の意見を聞いたりすること』だが、氷河の常識では、相談とは『問題の原因を突きとめるところから、他人に丸投げすること』なのだろう。
紫龍は不本意(というより不愉快)だったが、星矢は喜んで 氷河の常識(= 世界の非常識)を受け入れた。
決して氷河のためではない。
あくまでも 瞬とナターシャのため、何より自分自身の好奇心を満たすために。

「氷河は、瞬が恐くて 瞬に事情を訊けないんだろ。俺が訊いてやるよ。俺、シャイナさんは恐いけど、瞬は全然 恐くないから!」
氷河への挑戦としか言いようのないセリフを、明るく屈託なく言い放ち、星矢が グラスに残っていたカルピスを一気に飲み干す。
アルコール度数0パーセント、言わずと知れた超有名 乳酸飲料。もちろん、星矢は酔っていない。
それが わかっているから、カウンター内の氷河のこめかみは ぴくぴくと引きつっていた。






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