「あんなに いい子だったナターシャちゃんが、最近、すっかり悪い子になっちゃったんだ……」
氷河曰く“これ以上を望むべくもない最高の母親、理想以上のマーマ”であるところの瞬の悩みは、星矢が思っていた以上に深刻で、だが、極めて普通の母親らしい悩みだった。
我が子が いい子でいてくれない。
そんな悩みは、幼い子供を育てている母親が100人いたら、そのうちの99人が 一度は囚われたことのある悩みだろう。

瞬の悩みが深刻であるにしても、こんなに普通の悩みであるのなら、わざわざナターシャと氷河をスイカの買い出しになど行かせる必要はなかったかもしれないと、星矢と紫龍は思ったのである。
瞬を悩ませている内容がナターシャの耳に入れない方がいいことだった場合を考えて、ナターシャをマンションの外に出したのだが、瞬の悩みが そういうことなら、その悩みは むしろナターシャに知らせた方がいいのかもしれない。
と、星矢と紫龍は思い、『でも、どっちにしても、スイカは食いたいから』と、星矢は思い直した。

これまでのナターシャが並以上に 素直な いい子だっただけに、ナターシャが 突然 悪い子になってしまったのが、瞬にはショックだったらしい。
そして、その豹変の理由や きっかけに全く心当たりがないことが、瞬を不安にしているようだった。
もっとも、ナターシャの悪い子振りは、
「遊んだ玩具の お片付けはしないし、外から帰ってきた時の手洗い うがいもしなくなったし、お出掛けする時に 帽子をかぶるように言っても、断固として拒否するんだ」
――といったレベルの悪い子振りで、星矢には それは悪いことでも何でもない ごく普通の“子供の たしなみ”だったのだが。

「これまで当たり前のようにできていたことなのに、いったい なぜ……」
瞬も 悪い子が星矢なのであれば、心配などしないのだろう。
これまで、いつも いい子だったナターシャだから、瞬はナターシャの悪い子振りを――むしろ、彼女の豹変を――案じているのだ。
更に瞬を悩ませているのは、ナターシャが悪い子なのは、瞬といる時だけで、氷河の前では いい子のナターシャのままである――という点らしい。
「ナターシャちゃん、昨日は、僕を『馬鹿野郎』って怒鳴ったの。そんな言葉、絶対 口にしちゃいけないって、言ってあったのに……」

ナターシャが“使ってはいけない言葉”を使ったことと、その言葉が自分に向かって投げつけられたこと。
瞬には、そのどちらが より衝撃的な出来事だったのか。
それは、瞬の仲間たちにも わからないことだったが、あの“パパの可愛いナターシャ”路線を追及しているナターシャが『馬鹿野郎』などという言葉を口にしたという事実は、星矢や紫龍にとっても意外で、かつ 非常に驚くべきことだった。

「馬鹿野郎? ナターシャがか?」
「うん……。ナターシャちゃんが 甘いジュースばかり飲みたがるから、おかわりは 麦茶にしようねって言ったら……」
以前は『ジュースを飲む?』と尋ねれば、『カロリー0のお茶がいい』と答えることが多いくらいだったナターシャが、
『ナターシャは甘いジュースがいいんダヨ!』
と言って、退く気配を見せなかったのだそうだった。

『でも、さっき、おりんごのジュースを飲んだばかりでしょう? お砂糖のとりすぎは、ナターシャちゃんの身体によくないんだよ。甘いジュースばかり飲んでいると、砂糖依存症や糖尿病っていう、恐い病気にかかっちゃうかもしれない』
『ナターシャは、甘いジュースが飲みたいの!』
『ナターシャちゃん。麦茶にしようね』
そう言って、瞬が 空になったジュースのグラスを取り上げると、ナターシャは、ぷーっと頬を膨らませ、むーっと瞬を睨んでから、
『マーマのバカヤローダヨ!』
と大声で怒鳴って、ダイニングテーブルの椅子から飛び下り、リビングのソファに移動して、クッションに顔を突っ伏してしまったのだそうだった。

『ナターシャちゃん、どうして、そんなこと言うの』
乱暴な言葉使いを叱ることもできないほどショックで、瞬は 叱る口調ではなく静かに尋ねたのだが、ナターシャは 気まずそうな顔にはなったが『ごめんなさい』も言わなかったのだそうだった。
「反抗期とは違うと思うんだ。氷河への態度は、これまでとは 全然変わっていないから。ナターシャちゃん、氷河のいるところでは、僕に対しても これまで通りの いい子なんだよ……」

娘への愛情だけは誰にも負けない氷河――言い換えれば、娘への愛情しかない氷河。
そんな氷河に足りない部分、欠けている部分を、自分はうまく補えていると思っていただけに、瞬は この事態に すっかり自信喪失しているようだった。
「僕が どんなにナターシャちゃんの いいマーマになろうとしても……これはもう、理屈の問題じゃないような気がする。女性ならではの 優しさとか、甘さとか、やわらかさとか、そんなふうな 何かが僕には欠けていて、そのせいで僕はナターシャちゃんのマーマになれていないんだと思う。僕は 所詮、偽物の母親でしかないんだ……」
その疑念、その戸惑いが、『ナターシャには ちゃんとした母親が必要なのではないか』という不安の発露になり、氷河を激怒させることになったのだろう。
とはいえ、どれほど激怒しても、氷河には 瞬を責めることはできない。
だから、氷河は、彼の恐くない仲間たちに相談を持ちかけてきたのだ。

「あのナターシャが『馬鹿野郎』は、確かに ちょっとした大事件だな」
その大事件の真相を、ナターシャのパパとマーマが知らないのであれば、それは もはやナターシャ当人に訊くしかない。
「ナターシャに探りを入れてみるか……」
当然の流れで そう呟くことになった星矢は、自分が漕ぎ出した『馬鹿野郎』の謎の海で、やがて 思いがけない港に流れ着くことになってしまったのだった。






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