あれから2年。 エティオピアには、また嵐の季節が巡ってきていた。 エティオピアの嵐は、東の海の上で生まれ西進。大波と共に上陸した時が最大勢力で、陸地を進むにつれて弱くなり、内陸の砂漠まで風雨を運ぶことは稀である。 だが、2年前の嵐は、いつもの嵐とは様相が違っていた。 実際に違っていたのは 強さと大きさだけだったのだろうが、通常の嵐の数倍のエネルギーを抱えた嵐は、海から上陸した後も 強い勢力を維持し続け、更に 力を増し続けたのだ。 2年前の嵐は、強大な勢力を持つ嵐の直撃に慣れた浜辺の住人より、強い嵐に慣れていない内陸や山間部の住人たちに 大きな損害をもたらした。 エティオピア国内を流れる川のほとんどが氾濫し、あの嵐で流れが変わってしまった川も少なくない。 畑や果樹、住宅だけでなく、人命も多く流され、失われた。 失われた命を取り戻すことはできないが、同じ悲劇を繰り返さないための手当てはできる。 2年前の嵐で、国土が負った傷をすべて癒すのに、エティオピアは2年の時を要した。 今日は、その最後の仕上げの日。 エティオピアで最も大きな川の堤防と、水量が増えても 被害が広域に及ばないようにするための新たな水路が完成し、その開通式が行われる。 2年前の嵐で、この付近にあった ささやかな土手は すべて押し流され、この地域の畑と果樹は全滅した。 昨年は、まだ築造の途中だった堤防を、エティオピア軍の兵士たちを多数 動員し、人力で補強した。 そして、今年。 新しい堤防と水路の築造は、嵐の季節に何とか間に合った。 昨日まで曇っていた空が、今日は嵐が過ぎ去った直後のような青天。 瞬は、その開通式にやってきていた。 この堤防の築造と流路の変更を提案したのは瞬だった。 以前、ギリシャのプレイストス河の流れが変わった災害の記録を読んだことがあって、それをエティオピアの治水に応用してみてはどうかと、兄に進言したのだ。 土木工事者の意見や 地図ではわからない現地の事情を考慮して、多少の変更は加えられたが、瞬の提案は ほぼそのまま採用された。 それから1年半の時間と、多くの人手を費やして、新しい堤防と水路は ついに完成したのである。 上流の村で、開通式に出ている一輝が堰を開けた合図の狼煙が青空に白い線を描いた。 新しい流路の水が、ここまで無事に流れてきてくれるかどうか。 瞬と近隣の村人たちは固唾を呑んで、今はまだ長い窪みにすぎない水路を見守っていたのだが、工事の成功を 最初に教えてくれたのは、水路を流れる水ではなく、その水の先頭を追いかけて 水路に沿って駆けてきた上流の村の子供たちだった。 傾斜の少ない土地の緩やかな流れなので、健脚の男の子たちだけでなく、女の子も余裕で並走できたらしい。 子供たちの歓声に釣られて 工事成功の狼煙を上げてしまった兵士は、子供たちに少し遅れて走ってきてくれた川の水に、ほっと安堵の息を洩らした。 子供たちの甲高い声とは趣を異にする大人たちの 低い どよめきが 周囲に響き、この村の村長が、その目を赤くして、瞬の両手を握りしめてきた。 「王子様、ありがとうございます! おめでとうございます!」 彼は、2年前の嵐で、跡継ぎ息子と 彼の孫を身籠っていた嫁を失ったのだそうだった。 工事の成功を祝う言葉より感謝の言葉が先に出てくるのは、そういうことなのだろう。 彼の謝辞と祝辞には、『2年前に この堤防と水路があったなら』という無念が隠されている。 「皆さんの ご尽力のおかげです。遅くなって ごめんなさい。どうもありがとうございました」 そして、瞬の謝罪には、後悔と悲しみと、これでよかったのだと思おうとする気持ちが 隠れていた。 2年前。 あの年の最初の嵐がエティオピアにやってきた時。 自分は氷河と離れて生きていることはできないと、瞬は、それだけを考えていた。 丸2日 荒れ狂った嵐。 父から譲られた指輪と 母の形見の髪飾りだけを小さな袋に収め、瞬は王城の自室で 嵐が過ぎるのを待っていた――氷河が迎えに来てくれるのを待っていた。 かつてないほど大きな嵐はエティオピアの都の上を通り過ぎ、まもなく そこには明るく青い空が現れて――だが、氷河は瞬を迎えに来てはくれなかった。 嵐の翌日も、その翌日も、更に翌日も。 やがて、巨大な嵐がエティオピアの国に もたらした被害の全容が明らかになり、瞬の心は戦慄したのである。 これは もしかしたら、清らかさを失えば 地上世界を闇で覆い、命という命を消し去る滅びの主となるという神託を受けた人間が、恋にうつつを抜かしていたことへの報いなのではないか――と。 氷河が今更、エティオピアの王子を盗み出すことに 怖気づいたのだとは思いたくない。 約束を破られた、信頼を裏切られたのだとは思いたくない。 氷河はきっと、瞬がエティオピア王国の王子でいることが、瞬自身のため、エティオピア王国のため、地上世界のためだと考え直したのだ。 瞬は そう思いたかった。 「てっきり、おまえを盗みに来ると思っていたのに、奴にも 真っ当な判断力が残っていたか」 忙しい日々の中で 聞いた兄の呟きから察するに、兄が手をまわしたのでもないようだった。 嵐で落命した人の中に氷河が含まれているのではないかという不安もあったのだが、死者の身許が すべて判明すると、その可能性も消え失せた。 氷河は、氷河の意思で、彼の恋の成就を断念したのだ。 そうとしか考えられなかった。 |