きっと、僕のため。 きっと、エティオピアのため。 きっと、この世界のためだよ。 これでよかったんだ。 空が あまりに明るく まぶしくて、見上げていると目に涙が にじんでくる。 開通式に集まっている人々は、その涙を、工事の完成に感激してのものと解したらしく、瞬の涙で二度泣きを始めてしまった。 そんな誤解で 彼等の瞳を濡らすわけにはいかない。 瞬は慌てて、指で涙を拭った。 そんな瞬に、 「王子様 !? 王子様?」 と、突然 下の方から 尋ねてくる声があったのである。 小さな――背丈は 瞬の腰にも届かないほど小さな――女の子。 歳は、4、5歳――といったところだろうか。 二つに分けて結ばれた長い髪を、細く赤い木綿の紐のリボンで飾っている。 陽光を反射して きらきら輝く川の流れを切り取って作ったような瞳で、その少女は 瞬を見上げていた。 ほとんど 限界まで顔を上向かせている彼女を楽にしてやるために、瞬は その少女の前に しゃがみ込んだのである。 上を見上げずに済むようになった少女は、間近になった瞬の顔を見て、嬉しそうな笑顔になった。 「うん。僕は、瞬っていうんだよ。水路を見にきてくれたの? さっき、男の子たちに混じって、水と一緒に駆けてきたね」 「シュン……瞬。そうダヨ。お花みたいに綺麗で、よその国のどんなお姫様より綺麗な王子様ダヨ。水路を作ってくれて、アリガトウ! ナターシャ、お礼を言いに来たんダヨ!」 「ナターシャちゃん?」 きらきらした瞳の少女の名前は、ナターシャというらしい。 瞬の横にいた村長たちが顔を引きつらせたのは、花や よその国のお姫様を引き合いに出して “王子様”の美貌を褒めるナターシャの言動が 非礼に当たるのか否かの判断に迷ったからだったろう。 「いや、まあ、子供というのは正直すぎて――」 「決して 悪気があってのことではないので、どうぞ お気を悪くは――」 ここで、村長たちに、 『僕は、生まれて この方、一度も 男らしいと言われたことはありませんので、お気になさらず』 と本当のことを言ってしまったら、彼等は一層 対応に困ることになるだろう。 瞬は、あえて、村長たちの 執り成し(?)が聞こえなかった振りをした。 「ナターシャちゃんは、お花より可愛らしい。ナターシャちゃんは 一人で来たの? 今日は、大人がたくさんいるから大丈夫だけど、明日からは 一人で水路に近付いたら駄目だよ。落ちたら危ないからね。必ず お父さんか お母さんと一緒に来てね」 瞬の注意は、ナターシャには嬉しい提案だったらしい。 彼女は ぱっと顔を明るく輝かせた。 「ナターシャ、今度は パパと来るヨ! ナターシャのパパは、すっごくカッコいいんダヨ!」 王子さまに言われたことを一刻も早くパパに伝えなければならないと思ったのか、大きな瞳で瞬の顔を じっと見詰めていたナターシャは、急に そわそわし始めた。 意を酌んで、瞬が立ち上がると、ナターシャは、自分が なぜ嬉しい気持ちになっているのか わかっていないような様子で、嬉しそうな笑顔になった。 「ナターシャ、パパにホウコクしてくるヨ! 王子様は、ほんとに お花みたいに綺麗で 優しかったっテ。王子様、ばいばい!」 ナターシャは、パパが大好きなのだろう。 パパに報告することができたら、もはや居ても立ってもいられなくなったらしく、ナターシャは 瞬の『ばいばい』も待たずに、新しい水路の上流方向に向かって脱兎のごとく駆け出していた。 「明るくて 可愛い子ですね」 瞬が、ナターシャの家を訪ねることにしたのは、彼女が駆け去ったあとに 彼女の髪に結ばれていた赤いリボンが 自分の足元に落ちているのに気付いたからだった。 そして、 「驚くほど明るいでしょう? あの子は、2年前の嵐で九死に一生を得た子なんですよ。あの子の身体は、あの嵐の氾濫に巻き込まれた際の傷跡が無数に残っているんです。よく あそこまで回復したものだ」 という、村長の言葉を聞いたからだった。 彼女が落としていったリボンを、どうしても直接 自分の手で届けて、謝罪はできなくても、彼女の両親に何か力になれることはないか確かめて、できることがあるなら どんなことでもしたいと、瞬は思ったのである。 ナターシャと彼女の父は、2年前の嵐の後、この村の外れに家を建てて、暮らし始めるようになったのだそうだった。 父と娘だけで、母親はいない。 最初から いなかったのか、2年前の嵐で不幸に見舞われたのかは わからないが、語ろうとしないことを無理に聞き出して、傷を抉るようなことはできないので、詳しいことは聞いていない――と、村長は言った。 2年前の嵐では、村人のほとんどが亡くなって廃村になった村も多く、かろうじて生き延びた村は、一人でも村に人を増やしたかったから、村長は 喜んでナターシャ父娘を この村に受け入れた――のだそうだった。 誰かに案内させようという村長の申し出を遠慮して、瞬は 一人で、新しい水路の脇を上流に向かって歩き出した。 『2年前の嵐は、僕の我儘のせいで起きたのかもしれないんです』 つい 口を突いて出そうになる その言葉を、瞬は 無理に喉の奥に押しやった。 1度だけ、そうだったのではないかと、兄に問うたことがある。 兄は、一笑に付して取り合わなかった。 『暴風雨を司る神は大神ゼウスだぞ。ゼウスほど、人間に清らかさを求めない神もいるまい。あの嵐は、おまえの清らかさどころか、神託にも 神の意思にも関わりなく、むしろ 海上に生まれた嵐をゼウスが放っておいたせいで、大きくなりすぎた嵐にすぎない』 そう言って。 兄の言うことは理に適っている。 卑小な一人の人間の子供のせいで、あれほどの嵐が生まれたと思うことは、うぬぼれがすぎるとも思う。 今 神託を仰げば、それこそ 『あの嵐は エティオピアの王子とは無関係だった』という答えが得られるのかもしれない。 だが、だとしても――だとしても、瞬の罪悪感は消えなかった。 もしかしたら、それは、『氷河に会いたい』『もう一度 会いたい』という気持ちが、瞬の中にある限り、生涯 消えない罪悪感なのかもしれなかった。 |