村長に教えてもらった家は、上流の村と下流の村の境、水路から少し離れた山寄りの場所にあった。 家の前に、何種類かの野菜が植えられた畑。 窓の下には花壇があり、今はピンクや白色のコスモスが 可憐な花を揺らしている。 二人で暮らすなら、大きな城館ではなく、花壇と畑のある小さな家がいいと、昔 氷河と語り合った家が、空想の世界から飛び出てきたように、そこにあった。 急いだつもりはなかったのだが、瞬は ナターシャに追いついてしまっていたらしい。 瞬が、小さな山の裾野に ひっそりと佇む その家の姿を見付けたのは、ちょうどナターシャが シュロ縄で 編まれた四つ目垣の門を通り抜け、庭に飛び込んだ時だった。 「パパー!」 パパに急いで報告したいことがあるから、ナターシャは声を張り上げる。 一人で出掛けていった幼い娘を案じていたのだろう。空想の世界から飛び出てきた家の樫の木の扉は すぐに開いた。 そして、そこに――空想の世界から飛び出てきた家の樫の木の扉の向こうから、空想の世界の住人が、ふいに現れる。 離れて生きていることはできないから、二人で逃げようと、氷河は言った。 瞬は その言葉に頷いた。 自分も、氷河と離れて生きることはできないと思ったから。 嵐が過ぎ去っても、氷河は瞬を迎えに来なかった。 二度と恋はしないと決めた。 この2年間、瞬は氷河なしでも生きていられた。 氷河も同じだったのだろう。 氷河に何を言えるというのか。 氷河も、かつての若すぎた恋人に どうしても伝えたいことはないだろう。 「パパ! ナターシャ、王子様を見てきたヨ。お話もしたヨ。王子様は、お花みたいに綺麗だったヨ。パパが言ってた通り。それで、王子様は ナターシャのこと、お花より可愛いっテ。今度はパパと一緒に来てっテ。水路は、ナターシャ一人で見に行っちゃ、だめなんだっテ」 差し出されたパパの腕の中に飛び込んで、氷河に抱きかかえられたナターシャは、パパに報告しようと頭の中に詰め込んでいたものを、息もつかずに 一気に吐き出したようだった。 「そうか」 あんなに可愛らしい女の子が 頬を紅潮させて 一生懸命 報告しているのだから、もう少し にこやかに、もっと大袈裟に感心してあげればいいのに、氷河は ひどく反応が薄い。 都の王城にいた頃から、氷河は いつも あんなふうで――感情表現がへたで――作らなくていい敵を作っていた。 氷河に対峙する人は、氷河の その態度を“馬鹿にされている”と感じるらしい。 だが、決して そんなことはないのだ。 氷河は、人の話に大袈裟に感心したり感動した振りをすることの方が その人を馬鹿にする行為だと思っていて、だが、努めて冷静に振舞うだけ。 余人の誤解を、瞬は いつも もどかしく思っていた。 だが、氷河が誤解されるたび、氷河の態度の説明をしてまわるわけにはいかず、氷河に態度を改めるよう 言うこともできず――他人の話に 心の込もっていない愛想笑いをする氷河など見たくなかったから――そのままにしておいた。 自分だけは氷河の真意を わかっている。 そう思えることは、瞬には誇らしいことでもあったから。 しかし、それは もはや、瞬だけの特別の技能ではなくなってしまったらしい。 ナターシャという小さな女の子は、無表情の氷河の感情を読み取れているようだった。 彼女は、彼女の熱の込もった報告に『そうか』しか言わないパパに 大いに満足しているらしく、氷河の無表情に満面の笑みを返した。 そんな氷河とナターシャと――垣根の外に立つ瞬の姿に先に気付いたのは氷河だったかもしれないが、先に五感で知覚できる反応を示してみせたのはナターシャの方だった。 「あれ、王子様だ!」 『どうして、2年前、僕を迎えに来てくれなかったの』と、氷河に問うことはできない。 瞬は、ナターシャのために笑顔を作った。 「ナターシャちゃん、リボンを落としていったでしょう。届けに来たんだよ」 「わあ、ありがとう! ゴザイマス!」 「いいえ。どういたしまして」 リボンを届けに来たと言いながら、王子様は垣根の内側に入ってこない。 パパも、王子様のいる方に歩き出さない。 仕方がないので、ナターシャは、パパに 抱っこの腕を解かせて、垣根の外に立つ王子様の許に駆け寄っていった。 パパが王子様を見詰めているのが わかる――その強い視線が、背中に感じ取れる。 王子様もパパを じっと見詰めていたが、見詰めているのが苦しくなったのか、やがて王子様は パパを見なくなった――ナターシャだけを見るようになった。 「ナターシャちゃん」 氷河を見ずに済むように、瞬は、ほとんど項垂れるように下を向いた。 そして、小さな声でナターシャに尋ねる。 「ナターシャちゃんのママはどこ?」 「ナターシャ、マーマはいないんダヨ。だから、綺麗なマーマ募集中ダヨ」 「いない?」 「ウン。パパはマーマが大好きだったんダヨ。マーマは、世界一 綺麗で優しくて清らかなマーマだったんだっテ。でも、ナターシャがパパと会った時、パパは永遠にマーマに会えなくなったんだっテ」 「……」 ナターシャのマーマが『いない』というのは、この2年の内にどこかに行った、もしくは 亡くなったということなのだろうか。 ナターシャは、どう見ても4歳か5歳。 ナターシャが氷河と血の繫がった娘なのであれば、氷河は 都の王城にいた頃から ナターシャの母親と繋がりがあったということになる。 それは考えられなかった――考えたくないだけなのかもしれないが、それは 瞬には考えられなかった。 では、氷河は、2年前、2、3歳のナターシャを連れたナターシャの母親と電撃的に恋に落ち、この村で共に暮らすようになったが、彼女はナターシャを残して姿を消したか 亡くなった――のか。 あり得る可能性を あれこれ考えて、どれも無理があると却下することを繰り返していた瞬に、それまで大きな瞳で じっと瞬を見上げていたナターシャが突然 、瞬には到底 思いつかなかった“可能性”を瞬に問うてきた。 「もしかして、ナターシャのマーマは王子様ナノ?」 「ナターシャ!」 瞬の兄に 瞬との恋を禁じられた時も、瞬と逃避行の計画を伝えた時も、声を荒げたり、取り乱したりすることのなかった氷河が、ナターシャが発した質問に取り乱し、半ば かすれたような大声を上げる。 この2年間で、氷河は少し―― 否、かなり――変わったようだった。 |