『氷河の意地悪(と星矢は言った)の訳がわかった!』と騒ぎながら、星矢が 寮の瞬の部屋に飛び込んできたのは、全特待生のエントリー状況一覧の発表があった日の翌日だった。 星矢は、氷河と親しげだった紫龍に当たって、事情を聞き出してきたのだそうだった。 さすがは、現実家の実際家。 自称グータラの星矢は、必要だと思うことでは、計画性と行動力を 存分に発揮する。 『あんなに露骨に 瞬くんのエントリー種目に 自分のエントリーをぶつけていくとは、氷河が何を考えているのか、俺にもわからん』 と、最初のうちは 紫龍も 首をかしげ、呆れ果てていたらしい。 しかし、新たな情報も獲得できた。 「氷河ってさ、一輝と犬猿の仲だったらしい」 「兄さんと?」 「なんでなのかは、紫龍も知らないって言ってたけどさ」 兄の名を出されて、瞬の胸は ざわざわと騒ぎ始めたのである。 瞬の兄 一輝は、このグラード学園高校の生徒だった。 氷河たちより1学年上。 つまり、半年前にこの高校を卒業している。 そして、そのまま 姿を消した。 大学に進学するに十分なポイントを獲得していたにもかかわらず、おそらく進学もせず。 実の弟の瞬にも、『心配するな』という短い伝言を残したきりで。 瞬がグラード学園高校に入学することを決めたのは、兄を探すためだった。 グラード学園高校は、極めて特異な高校。 その特待生制度は異様。 資金は潤沢なのだろうが、普通の高校とは何かが違う。 内部に生徒として入り込めば、そこで 兄の失踪の原因を探ることができるかもしれないと、瞬は考えた。 そのために、瞬は、星矢と共に このグラード学園高校に乗り込んできたのだ。 学業で特待生になれる高校は、グラード学園高校の他に いくらでもあったのに。 「氷河さん、もしかして、兄さんのこと、何か知ってるのかな……」 瞬が呟くと、 「どうかなあ……。そもそも、おまえが一輝の弟だってことを 氷河が知ったのって、きっと 後期に入ってから、ここ1、2週間のことだろ。前期には、こんな嫌がらせしてこなかったんだから。紫龍は知らなかったんだぜ。俺が、氷河の嫌がらせの訳を探りに行って、何かの弾みで ぽろっと一輝の名前を出したら、それは 去年の卒業生の一輝のことかって、驚いてた。全然 似てないから、おまえと一輝が兄弟だなんて、気付かなかったってさ」 「ん……」 それでも。 氷河が兄の失踪について何か知っているかもしれない。 そう思うと、瞬は もう、いても立ってもいられなかったのである。 エントリー種目の意図的な重複のことだけなら、ポイント獲得を諦めればいい話だが、兄の失踪の理由を、もし氷河が知っているのなら、それは何をどうしても聞いておかなければならない重要な事案だった。 時刻は21時。 この時間なら、寮生の半数は まだ自室に戻らず、談話室かラウンジにいるだろう。 そう考えて、瞬は勉強を中断して自室を出、寮の3年生の共有フロアに向かったのである。 星矢が あとからついてくる。 談話室かラウンジで氷河を掴まえることができたなら、そのままミーティングルームに移動すればいいと、瞬は考えていたのだが、3年の寮生の半数は共有スペースにいるだろうという瞬の予想に反して、談話室にいた寮生は氷河と紫龍だけだった。 察するに、その二人(主に氷河)がいたから、他の寮生たちは 早々に自室に引っ込んでしまったのだろう。 先日の、混雑している学食で なぜか空いていたテーブル席と同じ現象である。 紫龍は そこで、瞬への嫌がらせとしか思えない エントリー種目の重複に関して、氷河を責めていたところだったらしい。 そんなことをした理由を白状させ、呆れていたところだったらしい。 「瞬、星矢」 瞬と、その隣りに立つ星矢の姿を認めると、紫龍は いわく言い難い顔になった。 氷河に白状させた嫌がらせの理由を、自分で説明したくはないが、口の重い氷河に説明させると無駄に時間がかかると判断して――その理由を瞬たちに語ってくれたのは、当の氷河ではなく紫龍の方だった。 それによると。 もともと 氷河と一輝は、特段 犬猿の仲というわけではなかったらしい。 性格や価値観は、水と油ならぬ 炎と氷ほどに違っていたが、互いに 互いの実力を認め合っていた。 ところが、ある日。 氷河は、一輝が生徒手帳に入れて持っていた瞬の写真を 偶然 見掛けた。 そして、『可愛い』と大絶賛し、その写真をくれと、一輝に申し出た。 一輝は もちろん、言下に断った。 その瞬間から、それまで 互いに実力を認め合った友人同士だった二人の仲は極めて険悪になり、常に殺気にも似た緊張感が漂う敵同士になってしまったのだそうだった。 「え、それだけ?」 と、星矢が 間が抜け、気が抜けた声をあげたのは、彼の心情を思えば、無理からぬことではあったろう。 瞬の兄は、実の弟に行き先も告げず 失踪している。 しかも、家も親もない瞬にとって 死活問題であるポイント獲得計画の徹底した妨害。 兄弟揃って、この世から葬り去らなければならないほど深刻な恨みが 氷河の中には存在しているのだと思っていたのに、原因は写真一枚。 『そんな馬鹿な』と星矢は思ったし、その気持ちは 瞬も同じだった。 しかし、星矢の『え、それだけ?』に、氷河は大真面目に(少なくとも、悪びれずに)深く、力強く、頷き返してきたのだ。 一輝が勿体ぶるので、いよいよ 実物が見たくなった氷河は、わざわざ外出許可を取って、瞬(と星矢)のいた養護施設まで出掛けていったらしい。 そして、施設の庭で、瞬が 自分より小さな子供たちの世話をしているのを見た。 転んで膝を擦りむき泣いている子供に、瞬は、天使も これほどではあるまいと思えるほど優しい眼差しと声で、『痛いの痛いの、飛んでけー』をしてやっていた。――と、氷河は言った。 俺のマーマと同じに。――と、氷河は言った。 ともかく、氷河は そう言ったのだ。 人間を破滅させ、その魂を食らうことに罪悪感も覚えない冷酷なメフィストフェレスが、突然 5歳の幼児に変わってしまったような、不気味に純真な瞳と声で。 星矢が、プチトマトに戯れる世紀の珍獣ピグミージェルボアを見るような目を、氷河に向ける。 「瞬じゃなくたって、誰だって するだろ。『痛いの痛いの飛んでけ』くらい」 「瞬以外の人間の『痛いの痛いの飛んでけ』は、美しくない。マーマに似ていない。マーマの『痛いの痛いの飛んでけ』と 瞬の『痛いの痛いの飛んでけ』は 特別だ。瞬の『痛いの痛いの飛んでけ』は綺麗で可愛い。本当に痛いのが どこかに飛んでいくんだろうと思う。瞬に 『痛いの痛いの飛んでけ』をしてもらった子供たちは皆、とても嬉しそうだった」 「いや、それ、多分、マーマは関係ないから。それは ただの一目惚れで、おまえは ただの面食いだから」 星矢の指摘は、氷河の耳に届いていたかどうか。 氷河は、星矢など見ず、星矢の声も聞かず、ただ瞬だけを睨んでいた。 当人は 見詰めているつもりらしかったが、彼はただ 睨んでいた。 |