運命ではない特別






初めて その姿を視界に入れた瞬間に、『この人は特別だ』という“感じ”に、氷河は 自身の心と身体とを掴みあげられた。
そう“感じ”ているのは、氷河自身の心もしくは感覚だというのに(そのはずなのに)、その“感じ”――クオリア――は、内側から、氷河を鷲掴みにしたのだ。
弱い力――優しく、やわらかく、穏やかな、だが 神にも逃れられそうにないような不思議な力で。

もとより、自分を理性的な男だと思ったことはない。
とはいえ、一目惚れなどという夢想を信じるほど、理性を放棄しているわけでもない。
『自分は 一目惚れをした』と主張する者たちは、激しい欲望や飢餓を感じていた時に、たまたま その者たちの許容範囲内の相手が視界に飛び込んできただけなのだと思っていた。
その欲望や飢餓が、性欲のこともあれば、美を欲する気持ちや孤独感のこともあるだろうが、いずれにしても それは“偶然”の出来事にすぎず、“特別”でも“運命”でもない。
そう、氷河は思っていた。

だから、氷河は、それを一目惚れだとは思わなかったのである。
その出会いは、欲望や飢餓の波長が 偶然 その存在に合致し共鳴した“感じ”ではない――と思う。
では、これは“運命”か――運命の女神たちが定めた運命なのか。
神々の代理戦争に 大勢の人間が利用された、このトロイアの戦のように、すべては神が仕組んだ運命なのか。

おそらく、違う。
『これは運命だ』という“感じ”はしない。
ただ、『この人は特別だ』と感じるのだ。
運命ではないから、氷河は言わずにいることもできたはずだった。
むしろ 氷河は、この出会いが 神々によって気まぐれに紡がれた運命ではないと信じて――感じて――いたから、言ったのだ。
「この者を俺にくれ」
と。
運命に従ったのではなく、自分の意思に従って言ったのだ。
「他には何もいらない。この人を俺にくれ」
と。






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