ギリシャとはエーゲ海で隔てられた小アジア、トロイアの地。
もともと 氷河は、望んで この戦いに参加したわけではなかった。
トロイアの王子パリスと共に、夫の許から逃げ出したスパルタの王妃ヘレネーを奪還するために勃発したトロイア戦争。
浮気な尻軽女と軽率な王子の愚行が発端の戦などに、誰が真面目に参加したいだろう。
しかも、事実かどうかは、神ならぬ身の氷河には知りようもないが、その愚行の遠因は、愛と美の女神が“最も美しい女神”の称号を得るために、審判者パリスにヘレネーを与える約束をしたこと――だというのだ。

神の箔づけのために 人間たちの運命が狂い、人間界に対立をもたらした。
そして、その対立は ギリシャの国々を巻き込む大きな波になり、幾千幾万の命が失われる、長く過酷な戦争へと、不気味に変貌していったのだ。
それだけならば、人間は 神々に翻弄される哀れな被害者ということになるだろうが、人間たちは人間たちで、神によって企てられた この戦いを、自らの益を得るために利用していた。
トロイア戦争は、奪われたスパルタ王妃奪還を名目に、新たな植民地を獲得しようとするギリシャの各都市国家による、トロイア侵略戦争だったのだ。

原因も目的も実体も、浅ましく卑しい戦い。
そんな戦いが既に10年も続いている。
ギリシャに割拠している幾つもの都市国家。それらの国の多くの王、王子、将軍、英雄たちが 野心に燃え、大軍を率いて、トロイアに渡ったが、彼等ギリシャ連合軍は、10年経っても トロイアの城壁を打ち破ることができなかったのだ。
そして、その10年のうちに、多くの王や英雄たちが命を落としていった。

10年は長い。
スパルタの王妃にも植民地の獲得にも興味のない兵士たちのみならず、勇んで この戦に繰り出してきた王や英雄たちまで――皆が 戦いに倦んでいた。
誰もが、早く 故国に、家族の許に帰りたいと願っていた。
だが、一兵卒ならならともかく、一国の王や王子が、10年も戦って、手ぶらで国に帰るわけにはいかない。
そんなことをしたら、幾多の人材と物資を投入したトロイア戦争に勇んで参加した国王、王子、将軍たちは、ただ国の資源を食いつぶし、国を疲弊させただけの無能者として、国を追われることになるだろう。
彼等は、せめて 戦に勝利したという名誉だけは持ち帰らなければならなかったのだ。

もっとも、スパルタ国王(というより、ヘレネーの夫)メネラオスだけは、名誉だけで済ませるわけにはいかなかった。
妻ヘレネーを故国に連れ帰らなければ。
それゆえ、彼は、故国スパルタに、幾度目かの、兵力と船と武器、馬の補充を求めたのである。
しかし、それらがスパルタに無限にあるわけではない。
そんな要請には応えられない。
だから――終わらない戦を終わらせるために、氷河はトロイアにやってきたのだ。


氷河は、スパルタ王家に連なる者――ということになっていた。
といっても、全くの傍系である。――傍系らしい。
スパルタ王妃ヘレネーとの血の繋がりは薄い(ことになっている)。
そして、スパルタ王メネラオスとは 赤の他人である。

スパルタの現国王にしてヘレネーの夫メネラオスは、スパルタ王家の者ではない。
彼は、ミュケーナイの王アガメムノーンの弟で、スパルタ王家の王女ヘレネーを妻にすることで、スパルタ王になった男である。
ところが、そのヘレネーも、表向きは、前スパルタ王テュンダレオスと その妻レダの娘ということになっているが、実はテュンダレオスの子ではない。
つまり、ヘレネーに スパルタ王家の血は入っていない。

ヘレネーは、人間であるスパルタ王より高貴な大神ゼウス(白鳥に化けてやってきたらしい)との間にできた娘だと、ヘレネーの母親レダは、夫の存命中から公言して はばからなかった。
事実はもちろん、夫ではない人間の男との不倫の末に生まれた娘。
夫テュンダレオスによる不義の追及を逃れるために、夫に全く似たところのない娘を神の子だと、レダは言い張り続けたのだろう。
風に吹かれれば倒れるしかない葦草のごとき人の身で、大神ゼウスの望みに逆らうことができるでしょうか。
そう訴えられれば、一国の王といえど、風に吹かれれば倒れるしかない葦草のごとき人の身で、大神ゼウスに愛された妻の不義を責めることは難しい。

氷河がスパルタ王メネラオスや王妃ヘレネーに冷遇されていたのは、氷河の家が傍系だからではなく、スパルタ王家の血が入っていない彼等には、傍系であっても 確実にスパルタ王家の血が入っている氷河が脅威だったからである。
とはいえ、氷河は、自分が彼等に冷遇されていたことを、ほとんど憶えていないのではあるが。
10年も前にトロイアに渡ったきり故国に帰ってこない王と王妃。
彼等がトロイアに渡った10年前、氷河はまだ8歳の少年だったのだ。
当時 既に、母は亡く、氷河は一人きりだった。
母が生きていれば、母を冷遇した者たちを憎むべきものとして記憶に留めることもしたかもしれないが、ほとんど顔を会わせたことのない国王夫妻など、氷河にとっては まさに“どうでもいい存在”だったのである。

氷河がトロイアに向かったのは、名誉欲や復讐のためではなかった。
他国の若い男に妻を奪われた王を嘲笑うためでも、戦力の補充を願う王の望みを叶えて、彼に恩を売るためでもなかった。
そうではなく、氷河がトロイアに向かったのは、スパルタとギリシャの民のため。
人を育てる側から、馬を鍛える側から、穀物を実らせる側から、鉄や銅を掘り精錬する側から、すべてをトロイアの戦場に奪われて、飢え渇き嘆き苦しんでいるスパルタの民とギリシャの民を救うため、氷河はトロイアに渡ったのだった。

今のままでは、いずれ、ギリシャとトロイアは共倒れするしかない。
トロイアに恨みはないが、戦を終わらせるために、氷河はトロイアの兵たちを打ち滅ぼすしかなかった。
既に英雄ヘクトルは亡く、後先考えず人妻をたぶらかす軽率な王子パリスと年老いた国王プリアモスと女たち、子供たちが残っているだけのトロイア王家は、氷河が城内に切り込み、戦士の礼儀など無視して半日も暴れ続けると、早々に降伏の意思を示してきた。

10年攻めあぐんでいたトロイアの陥落。
トロイアの城が落ちた時、ギリシャの兵たちは、トロイア城内にいた者も、城の外で弓を射ていた者も、石弓の操作をしていた者も、すべてが その手を止めて、感極まり大歓声を上げた。
兵士たちの目は、老若の別なく、巨漢小柄の別もなく、出身国の別もなく、すべてが涙で濡れていた。

祖国に帰れる。
懐かしい故郷、懐かしい家族の許に帰ることができる。
兵たちは、その思いで 胸がいっぱいだったろう。
その故郷が、荒れ果て、変わり果てていることは まだ知らなくても、そこは懐かしい人たちのいる、懐かしい場所なのだ。

氷河もさっさと帰りたかった。
戦いの報酬、勝利への褒賞など いらない。
植民地も金も宝石も奴隷もいらない。
恨みもないのに滅ぼしてしまった国に長居はしたくない。
実際 氷河は、ギリシャ連合軍の王たちに、『一刻も早く 故国に帰り、荒れ果てたギリシャを蘇らせてくれ』と、頼んだ(!)のである。
10年の長きに渡った過酷な戦を たった半日で終わらせてやった英雄が、10年もの長い月日を無為に過ごした愚王たちに、言葉を尽くして!
だが、愚かな王たちには、故国の復興より、この戦いの戦利品の分配の方が 重要な問題だったらしい。
トロイアという敵を失った彼等は、それらを巡って内輪揉めを始めてしまった。

呆れ果て、一度は自分だけ先に帰国することも考えた氷河が、それでもトロイアに残ったのは、ギリシャの愚王たちの見張りと牽制をやめ、彼等を自由にすると、彼等は 自らが欲するものを 自らが得るため、せっかく終わった戦争を再開しかねない――と思ったからだった。
彼等は、今度はギリシャ人同士で争いを始めかねない。
氷河は、その事態を防ぐため、トロイアに残らざるを得なかったのだ。






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