トロイア落城の3日後。 イーリオスの神殿に、ギリシャ各国の国王や王子たちが集まったのは、そこにトロイア王家の生き残りが匿われているのではないかと怪しむ者がいたからだった。 トロイア王家の傍系の王子アイネイアスが、まだ見付かっていなかったのだ。 あとになってから、彼はトロイア落城直後 素早く海に出て、イタリアに向かっていたことがわかったのだが、それは さておき。 その神殿の奥で、氷河は 一人の“特別な”人間を見付けたのである。 望んでやってきたわけではない異国の地。 無益な戦いを終結させるために、渡ってきた小アジア。 恨みもなかったのに 滅ぼさなければならなかった王家が治めていた地に、長く留まっていたくはない。 一刻も早く、母の眠る故国に帰りたいと思っていたのに、それでも、氷河が このトロイアの地にやってきたことには 意味があったらしい。 トロイアで最も大きく、トロイアで最も古く、トロイアで最も格式の高い神殿の最奥にある至聖所。 そこに、十数人の巫女たちに囲まれ守られて、その人はいた。 十代半ば。 壁も柱も天井も、乳白色の大理石。 本来なら俗人は足を踏み入れられない聖なる場所に、まるで光と水だけでできているような清らかな佇まい。 氷河は、ほとんど夢の中を歩むような足取りで その人に近付き、そっと その人の髪に触れ、その人が幻でないことを確かめた。 実体がある。 肌と肉と体温。 澄んだ瞳と唇には、意思も感じられる。――心がある。 『この人は特別だ』という“感じ”に、氷河は 自身の心と身体とを掴みあげられていた。 そう“感じ”ているのは、氷河自身の心もしくは感覚だというのに(そのはずなのに)、その“感じ”――クオリア――は、内側から、氷河を鷲掴みにしたのだ。 弱い力――優しく、やわらかく、穏やかな、だが 神にも逃れられそうにないような不思議な力で。 『これは運命だ』という“感じ”はしない。 ただ、『この人は特別だ』と感じるのだ。 運命ではないから、氷河は言わずにいることもできたはずだった。 むしろ 氷河は、この出会いが 神々によって気まぐれに紡がれた運命ではないと信じて――感じて――いたから、言ったのだ。 「この者を俺にくれ」 と。 運命に従ったのではなく、自分の意思に従って言ったのだ。 「他には何もいらない。この人を俺にくれ」 と。 その言葉を、氷河は、清らかな光でできた人を見詰めて口にしたのだが、その人を氷河に“くれ”る権限を持っているのは(一応)、氷河の背後に ずらりと並んでいるギリシャ各国の王や王子たち――氷河のおかげで、戦争の勝利者になり、トロイアの支配者になることのできた権力者たちである。 彼等を代表する形で、ギリシャ中央高地テッサリアの王が、眉間に皺を刻みつけながら、 「それは何者だ」 と尋ねた。 イーリオス神殿の巫女たちに囲まれている当人ではなく、その周囲にいた巫女たちに向かって。 彼女等の中で最も年長らしい巫女(といっても、20歳そこそこである)が、その質問に 淡々とした声音で答える。 彼女等は祖国の王家の滅亡に接して、慌て混乱しているようではなかった。 もちろん喜んでいるわけではないだろうが、嘆いているようにも見えない。 おそらく彼女等には、肉親がおらず、天涯孤独の身なのだろう。 あるいは、幼い頃に 肉親から引き離され、この神殿に巫女になるべく連れてこられた少女たちなのだろう。 戦など、肉親や愛する人が傷付き、命を落とすようなことさえなければ、言葉の通じない獣たちの喧嘩と大差のないものである。 彼女等にとって、トロイア戦争は そういうものでしかなかったに違いなかった。 「瞬様は、このイーリオス神殿の覡、神の器です。いずれ、神の魂を その身に受け入れる御方。そのため、汚れることが許されません。我等は、瞬様が 汚れに触れることなく、美しく清らかに育つよう、ひたすらに守ってまいりました」 答える巫女の声にも言葉にも 淀みがないのは、彼女等の務め、彼女等の生きる目的が はっきりしており、(今のところは)失われていないからである。 氷河は、彼女等が、彼女等の生きる目的である“神の器”を手放すまいとして抵抗することを危惧して、牽制を入れた。 (まさか、剣を持ったこともなさそうな少女たちを、『俺の邪魔をするな』と言って切り捨てるわけにはいかない) 「つまり、神の魂を受け入れていないうちは、“それ”は 綺麗なだけの人間だということだな。途轍もなく綺麗な、ただの美少女だ」 「いえ……それは……」 この戦争の勝利者である(ということになっている)ギリシャの国王たちに、怯んだ様子も見せずに言葉を編んでいた巫女が 初めて口ごもる。 「違うのか」 氷河が訝り尋ねると、その疑問への答えは、彼女の後ろ――彼女が守っている神の器から返ってきた。 かなり――思いがけない答えが。 「僕は男子です」 「なに」 “瞬様”と呼ばれていた神の器が、掛けていた長椅子から立ち上がり、氷河の顔を覗き込んでくる。 「……これは、お見それしました」 「……」 氷河の謝罪に、神の器は 何も言わなかった。 だが、氷河を見詰める 澄んだ その瞳に、恐怖や嫌悪の色はなかった。 彼女――彼――は、ギリシャ人を恐れてはいない――少なくとも、氷河を嫌ってはいない。 清らかな光でできている神の器――瞬は、この神殿から出たいのだ――と、氷河は直感した。 氷河が 望んでトロイアに来たのではないように、瞬も、望んで神の器に選ばれたのではない。 一方は、この神殿を出ることを望み、もう一方は、この神殿から連れ出すことを望んでいるのだから、問題はない。 「この神殿と 神殿内にいる者たちに、これまで通りの暮らしを許してくれるなら、僕は 喜んで あなたの奴隷になりましょう」 「いや、おまえは、自由民として受け入れさせる」 氷河が この神殿の覡を 我が物にすることに反対する者はいなかった。 ギリシャとトロイア双方が共に倒れかねないほど空しく長い戦いを終わらせたのは、氷河である。 氷河が一人で、終わらせたようなものだった。 そんな氷河の望みを妨げることは、誰にもできなかったのだ。 トロイア王位を要求されても、文句は言えない。 むしろ、氷河が なぜそれを求めないのか、奇異に思っている王たちも多かったのだ。 反対したのは ただ一人。スパルタ王メネラオスだけだった。 あろうことか、 「この戦は、我が国スパルタの王妃奪還のために起きた戦。スパルタの者が褒賞を受け取るのは、筋が通るまい」 という理屈で。 自分の家臣に過ぎない男が“いい目”を見るのが不愉快なだけなのだということが あからさますぎて、氷河の方が他国の王たちの前で 気まずさを覚えるほどだった。 メネラオスの立場や面目を気にかけてやる義理も義務も、氷河にはなかったが。 「貴様が、貴様の古女房以外の何も手にせず スパルタに帰るというのなら、その理屈も通るだろうが……そのつもりなのか? だとしたら、殊勝な心掛けだ。新たな植民地も、トロイア王家の宝も、ただ一人の奴隷も 我が物とはせず、王妃奪還に助力してくれた皆々に すべてを分け与えて、自分は何も受け取らないとは、実に潔い」 そうすることができるのなら。 そうすることが、本当にできるのなら。 「自分は何も持たずに、故国に帰ると? 数万の兵の命と、40隻の帆船と、スパルタで生産された穀類の半分を10年分、トロイアの大地と海に捨てた国王が、妻一人だけを伴って、身ひとつで帰国? 貴様は、スパルタの民に殺されたいのか」 氷河は、決してメネラオスを敵に回すつもりはなかった。 彼は 尊敬できる王ではなかったし、氷河は 彼に好意を抱いてもいなかったが、彼をスパルタの王位から引きずり落としたいと考えたことはない。 適切にスパルタを治めてくれさえすれば、王は誰でもいい。――というのが、氷河の国政についての考え方と姿勢だった。 だが、スパルタの王といえど、俺のしたいことを邪魔することは許さない。 王に横槍を入れられようと、欲しいものは 手に入れる。 スパルタの王は もちろん、ギリシャのどの国の王にも トロイア戦争を終結させてやった男の望みを妨げる権利はない――と、氷河は思っていた。 氷河の挑発に乗って、『無論、俺は 妻以外に何も持たずに帰国する』と言い返してくるほど、メネラオスは 愚かな男ではなかった。 彼は、そこまで無欲な男ではなかったらしい。 メネラオスは、氷河への返答に詰まり、黙り込んだ(この場合、最も賢明な対応である)。 「ふん」 メネラオスの賢明を、氷河は、大いに称賛し、鼻で笑った。 「イタケのオデュッセウスは、宝石も奴隷も土地の分け前にも目をくれず、早々に故国に向かって船出した。貴公等も急いだ方がいいぞ。貴公等の国の留守を任された者たちが、大人しく留守番をしているとは限らない。貴公等の細君を寝取り、勝手に新王として即位している国も多い」 氷河は、親切心から忠告してやったのに、『自分の国、自分の妻に限って そんなことはない』と、王たちの ほとんどは油断しているようだった。 彼等自身は皆、このトロイアで現地妻を持ったというのに。 「10年は長い」 氷河の駄目押しで、彼等はやっと少しだけ、危機感を抱いたらしい。 翌日以降、トロイアの港から、ギリシャ各国の船が、次々に自国を目指して旅立っていった。 |