トロイアは、トロイア王家の居城がある港町だからこそ発展していた町である。
その王家が滅び、町は、長い戦で荒れ果てた。
トロイアの港の周辺は 既に町の体裁を留めていなかった。
ギリシャの軍船が姿を消せば、トロイア周辺は、植民地として支配する意味もない貧しい(その代わり、平和な)漁村へと変貌するだろう。
トロイアの地を どうするかは、生き延びたトロイアの人々が決めることで、ギリシャ人は口出しすべきではない――と、氷河は思っていた。

氷河が考えた通りになりそうだった。
ギリシャの船団がトロイアの海から立ち去ると、そこは、驚くほど静かな、漁村ですらない浜辺になってしまったのだ。
メネラオスは、3日前にスパルタに向かって船出していた。
そして、氷河は トロイアの港を出る最後の船の指揮官になったのである。
トロイアの港を出る最後の船に、氷河はイーリオス神殿で出会った神の器になるはずだった少年を乗せた。



初めて 神殿を出た。
初めて 全身で陽光を浴びた。
初めて 船に乗る――。

そういったことを、瞬が いちいち氷河に報告してくるのは、自分の無知と未経験を隠すことで、氷河たちに迷惑をかけることを回避するためらしく、その際の瞬の口調は淡々としたものだった。
10年間 敵だった国の本拠地に赴くことを、殊更 恐れているようではないが、行く手には未知のことばかりが待っているのに 恐れを感じていないように思えるのは、諦観や自棄の心ゆえなのではないかと、瞬のそんな様子に、氷河は 少なからず不安を覚えたのである。

「無体なことはしないから、自ら、命を絶つようなことはしないでくれ」
氷河が瞬に そう告げたのは、船の船尾に立ち 飽かず 海を眺めている瞬の姿に不安を覚えたから。
瞬は 当然、故国を離れ難く感じているのだろうと思ったから。
そして、瞬は誇り高い少年だろうと思うからだった。
瞬が、不思議そうに首をかしげて、心配顔の氷河の顔を見上げてくる。

「あなたが僕の立場に置かれたら、そうするんですか」
「……」
それは思いがけない反問で、氷河は 暫時 答えに窮した。
「あなたは、敵軍の捕虜になったら、辱めを受ける前に自死するの?」
「いや。死など考えない。俺なら、隙を見て逃げ出すだろうな。あるいは、敵をすべて切り伏せて、俺が その場の支配者になる」
「僕も同じです」
相変わらず淡々と――感情的でないという意味で、淡々と――瞬が言う。
「いや、まさか、それは さすがに――」

神殿の奥深くで 清楚な姫君のように育てられた瞬と、弱い子供は育てる価値なしとされ捨てられるスパルタの男が“同じ”であるわけがない。
さすがに賛同できず 氷河が言葉を濁すと、意外や瞬は、それまでの淡々とした様子を消し去り、驚くほど意思的な目で、きっぱりとした口調で、氷河への反駁を開始した。
「こんな子供のような細腕で、あなたと“同じ”にできるわけがないと思われますか?」
「……」
「試してみます?」
「……」

氷河は、『こんな子供のような細腕で、俺と“同じ”にできるわけがない』と思いはしなかった。
そうではなく、『こんな女みたいな細腕で、俺と“同じ”にできるわけがない』と思った。
そして、瞬の『試してみます?』という挑発(挑発だろう)には、『瞬は、正気で本気で、そんなことを言っているのか』という疑念を抱いた。
『俺が負けるわけがない』と思い、『俺が負けるわけにはいかない』と思った。
この船には、強さで人間の価値を測るスパルタの男たちが100人も乗っている。
彼等の前で、船の指揮官が 女子のような細腕の持ち主に敗北を喫するようなことがあったなら、途端に、船内の乗員の力関係が狂い、規律が乱れ、統率がきかなくなるだろう。

だが、氷河は、瞬との戦いを想像すると――まるで勝てる気がしなかったのである。
勝敗以前。
そもそも戦える気がしなかった。
自分の拳や剣で 瞬の肌に傷をつけることなど、自分の心臓を自分の拳や剣で貫くより痛い。
戦えず、負けるわけにはいかず、勝つこともできない――となったら、戦わないのが最善である。
「いや、試すのは やめておこう。俺はおまえに勝てない」
「そこまで 用心深くならなくても……」
「いや、わかる。俺はおまえに勝てない」

氷河が その言葉を繰り返すと、瞬は うっすらと微笑を浮かべた。
「イーリオスの神殿の神官たちは、ギリシャの兵たちは 武力と腕力と物欲――獣の徳しか持っておらず、獣の徳しか理解できない者たちだと 言われていたのですが、あれが嘘だったのか、氷河が例外なのか――。そのどちらでも嬉しいです。よかった」
瞬の微笑に、憎悪や皮肉の空気はない。
瞬の瞳に 陰りはない。
瞬は 言葉通りに嬉しそうで、その明るい輝きは、氷河が面食らうほどだった。

「僕は物心ついた時には もう、あの神殿の奥にいて――自由がほしかったんです。月や星の運行について学んでも、僕が見ることができるのは四角い小窓で四角く切り取られた小さな空だけ。花や鳥について学んでも、僕はそれらを自分の目で見ることができない。僕は人間なのに、人間について学ぶことは許されない。神殿の神官たちは いつも僕に、『汚れてはならない』と言ってましたけど、汚れがどんなものなのかを知らないままでは、汚れを避けることはできません」
「道理だ」
知識はイーリオス神殿の神官たちから与えられていたようだが、瞬は、知識や教養とは別に頭がいい。
強い兵士ではなく、強い将になる才に、瞬は恵まれている。
氷河は――氷河も嬉しくなった。

「神殿の外を見たかった。夢が叶いました」
瞬の微笑に翳りのない訳がわかった。
夢の実現の代償に、瞬は これから汚れを知ることになるのだろうか。
既に汚れに まみれている身で そんなことを案じている自分が滑稽だと、氷河は苦笑した。






【next】