10年に渡る長い戦争で、スパルタは疲弊していた。
10年不在だった国王。
軽率にも異国の若い王子と出奔して、ギリシャのすべての国を不幸にした王妃。
民心は、とうの昔に国王夫妻から離れ、彼等の帰国を喜ぶ民はいなかった。

「しょぼくれた亭主に愛想を尽かして若い男と逃げた浮気妻でも、取り戻すと嬉しいもんなのかねぇ。かつての絶世の美女も、今はもう40女。立派なおばあちゃんだよ」
「それより、王子様がお連れになったトロイアの美少女を見たかい!」
「見た見た。私、最初見た時、あの美少女をヘレネー様なんだと勘違いしてさ。世界一の美女は歳をとらないんだと誤解して、びっくりしたよ。全くの別人だったんだね。美女も歳には勝てないってことだ」
「いや、あの脂肪の塊りは、若い時にも大したことはなかったと思うよ。少なくとも、美の女神が嫉妬もせず、“世界一の美女”って称号を許すレベルでしかなかったんだよ」

美しい女が その取りえを失うことは、同性には 爽快で小気味いいことなのかもしれない。
ヘレネーのために、父を、夫を、息子を奪われたスパルタの女たちのヘレネーへの評価は 散々だった。
スパルタ王でいるために、そのヘレネーを妻として遇し続けなければならないメネラオスは、女たちのみならず、男たちからも軽んじられないわけにはいかなかったのである。


国の民を苦しめ、国を弱体化させた責任をとって、王位を退くわけにはいかなかったこと。
それがメネラオスの不幸だった。
年齢を考えれば、もはや ヘレネーとの間に子供は望めない。
戦争前に儲けた一人娘は他国に嫁ぐことが決まっており、スパルタ王位を継ぐことはできない。
スパルタ王位を退けば、メネラオスは スパルタに対して どんな影響力を及ぼすこともできない、無位無官の男になってしまうのだ。
なにより、自分がスパルタ王妃でなくなることを、ヘレネーが許さないだろう。

そのヘレネーは、今だに自分こそが世界一の美女でいるつもりらしく、王妃の帰国を喜ばないスパルタの民に大いに憤慨していた。
その怒りが、スパルタの民に美しいと褒め称えられているトロイアの捕虜に向かうことになったのは、何よりも美しさを自分の誇りの拠り所にしているヘレネーの心情としては、自然な流れだったのかもしれない。
だが、瞬から氷河を奪うことで その怒りを晴らそうと考えるのは、どう考えても自然な流れではなく――本音を言えば、氷河は、ヘレネーは10年間の異国暮らしで気が狂ったのではないかと疑いさえしたのである。

ヘレネーは、本気で、自分が今も世界一の美女だと思い込んでいるのだろうか。
彼女がトロイアの王子パリスと共にスパルタを出奔した時 既に、スパルタ王妃より自分の母の方が美しいと、氷河は思っていた。
しかも、ヘレネーは、氷河の亡き母より年上なのである。
何より、スパルタのみならず、ギリシャ全土を飢えと悲しみで覆い尽くす戦を引き起こした愚かな女に、誰が好意を抱くというのか。
氷河は、ヘレネーの考えが理解できず――彼女は、狂人でなかったら、中年女の皮をかぶった怪物だと、思った。

自分を世界一の美女だと信じているスパルタ国内で最も身分の高い中年女は、剣を持った10万のスパルタ兵に一斉に攻めかかられるより強力な脅威だった。
トロイア戦争は、世界一の美女を我が物にしようとしたトロイアの王子パリスが スパルタ王妃ヘレネーを さらったことが発端とされているが、パリスを そそのかしたのは むしろヘレネーの方だったのではないか。
そのためにトロイアは滅んだのではないか。
ごく自然に そんな疑念を抱かせるヘレネーの 禍々しさ、愚かしさ、おぞましさに、氷河は ぞっとしてしまったのである。
何十万の兵を つぎ込み、百隻を超える軍船を繰り出しても、ギリシャの男たちは この女に勝つことはできないと、確信する。
争いの女神の祝福を受けた この女を倒すことができるのは、おそらく 父を、夫を、息子を奪われた女たちでなければならないのだと、氷河は思うともなく思った。






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