「僕は医師志望なんです。でも、医師になるには、お金がかかる」 「金以前に、すごく難しい試験に受からなきゃならないんだろ?」 星矢が、あえて この場、このタイミングで、そんな言わずもがなのことを言ったのは、一輝の両親が既に亡いことを知っているからだった。 一輝、紫龍、氷河、星矢は、共に両親のない孤児で、同じ養護施設で育ち、今も 暮らしている。 星矢が一輝に妹がいることを知らず、その可能性を考えたことすらなかったのは、そういう境遇にある一輝に血の繋がった兄弟姉妹がいたら、当然 彼(彼女)は一輝と同じ施設にいるはず――という思い込みのせいだった。 両親が揃っていても、相当 裕福な家でないと、子供を一人 医師にすることには、経済的に かなりの困難が伴うだろう。 まして、両親のない身では。 そういう話をしたくなかったから、星矢は あえて、金以前の話を持ち出したのである。 紫龍が、星矢の気遣いを、気遣いと知った上で、無にした。 「星矢。この子は、おそらく特進――特別進学クラスの生徒だ。この学校で、偏差値75超え相当もしくはIQ160超えの生徒が入学した時にだけ設置されるクラス。沙織さんと同じカリキュラムが組まれていて、授業も 一般生徒とは別に行われる」 「偏差値75って、すごいのか?」 星矢は、頭の回転は速いのだが、偏差値どころか テストで75点も取ったことがなかった。 むしろ そういう生徒の方が、偏差値75のすごさは わからない。 紫龍の、 「日本で、入れない大学はない」 という説明で、星矢はすぐに偏差値75のすごさを理解し、沈黙した。 一輝が今の養護施設に来る直前、まだ小学校入学前だった瞬は、その聡明と賢明を城戸光政に見込まれて、沙織の遊び相手 兼 近習として 城戸邸に引き取られ、今に至る――ということらしい。 両親が揃っている家でも 気軽に用意できない医学生の学費など、沙織のポケットマネーで十分 賄えるのだ。 「一輝の奴、そんなこと、一言も……」 「優秀な弟の将来の妨げになりたくなかったんだろう」 紫龍の推察に、瞬は寂し気に頷いた。 「兄は優しいんです、いつも……。それで、僕は、沙織さんの身のまわりの世話することで、学校に通わせてもらっていて、沙織さんは、医学部だろうが海外の大学だろうが、どこにでも行かせてやると言ってくださっているんですが――」 そういう立場に置かれている妹が、突然 沙織の側の人間として、一輝の前に立ちはだかった。 一輝は、黙って その場を立ち去るしかなかったのだろう。 他にどうすることができたのか、星矢にも思いつかなかった。 瞬に泣きつけば、あるいは、瞬に強く命じれば、瞬は すぐに兄に折れていたらしかったが。 「でも、僕が沙織さんの側にいることで――僕の立場を悪くしないために、兄さんが我慢しなければならないようなことがあるのなら、僕は、自分のことは自分で何とかしますので、兄さんは兄さんのしたいようにしてと伝えてください」 「けど、そしたら、おまえが……」 『自分のことは自分で何とかする』と、可憐な野の花に告げられて、『はい、さいで』と、その言葉を受け入れられるわけがない。 一輝に似ても似つかない美少女は、優しく可憐で頼りなげな姿をしていた。 心配顔の星矢に、瞬が笑顔を向けてくる。 「僕は、兄に甘えすぎていたんです。僕だって、男なんですから、自分の学費くらい自分で何とかします」 「そっか。そーだよな。おまえも男なら――って、おおおお男ーっ !?」 本日二度目。 何か 非常に重要な単語を聞いたような気がして、星矢は、勢いよく吐き出していた言葉を途中で途切らせた。 『僕だって、男なんですから』 世にも稀なる美少女は、今、そう言わなかっただろうか。 誰が男だから、自分の学費くらい自分で何とかするというのか。 今の話の流れからすると、一輝の妹が 男だから、自分の学費くらい自分で何とかすると言っている――ということになる。 だが、まさか、そんな。 ――と、星矢は声にはしなかったが、星矢の声なき声を、紫龍は ちゃんと聞き取ったようだった。 「だから、『優秀な弟』と言っただろう。理事長室で、俺は、瞬の胸を見て、それを確かめていたんだ」 「だって、こんなに可愛いのに」 「だが、この胸のラインは、どう見ても男子のそれだ」 「いや、でも」 「そんなに繰り返し 否定するな。失礼だ」 「……」 『本当に男なのか』や『信じられない、嘘だろう』等の言葉は、飽きるほど言われてきたのだろう。 瞬は、『だって、こんなに』『いや、でも』と言い募る星矢に、腹を立てた様子は見せなかった。 それで かえって申し訳ない気分になり、及び腰になってしまった星矢に代わって、妙に明るく その場の主導権を握ったのは、氷河だった。 それまで ほぼ無言だった氷河が 突然、異様に元気になり、やたらと意気込み、張り切った様子で、瞬に迫り始めたのである。 「ということは、一輝は おまえに一目惚れしたのではないんだな?」 「それは ありえないことです」 「紫龍も貧乳が好きなわけではなく、瞬が男子だということを確認していただけ」 「嫌いなわけではないぞ。こだわらないだけだ」 「ならば、俺は、誰にも遠慮しなくていいということになる!」 「は?」 『兄さんは』『僕だって、男なんですから』に続く、本日三度目の『何か 非常に重要な単語を聞いたような気がして、星矢は、勢いよく吐き出していた言葉を途中で途切らせた』にはならなかった。 氷河は顔の造作や その肢体等、見た目は素晴らしくいいが、他はすべて変な男(“変”なのであって、“悪い”ではない)。 氷河の支離滅裂で意味不明な言動に、星矢は慣れていたのだ。 『俺は、誰にも遠慮しなくていいということになる』 その支離滅裂で意味不明な発言は、支離滅裂で意味不明を身上としている氷河の発言としては、ごく普通の発言だった。 いつも通り、支離滅裂で意味不明。 氷河は通常営業だったのだ。星矢にとっては。 『俺は、誰にも遠慮しなくていいということになる』 までは。 しかし、 「瞬、俺と付き合ってくれ」 は、そうはいかなかった。 意味不明ではないから、そうはいかなかったのである。 本日三度目。 何か 非常に重要な単語を聞いたような気がして、星矢は、勢いよく吐き出していた言葉を途中で途切らせた。 『俺と付き合ってくれ』 マーマ一筋のマザコン男は、今、そう言わなかっただろうか。 誰が誰と付き合いたいというのか。 今の話の流れからすると、氷河が 男子である瞬に対して 交際を求めている――ということになる。 だが、まさか、そんな。 ――と、星矢は声にはしなかったが、星矢の声なき声を 瞬は ちゃんと聞き取ったようだった。 「……え?」 もちろん、“聞き取った”と“理解する”は全く別の事柄である。 「一輝は実の兄。紫龍にも その気はない。星矢は、恋より男の友情重視の お子様だ。つまり、俺の恋路を妨げる者は誰もいないということだ」 氷河の辞書には、『倫理』『道徳』『良識』『一般』等々の単語は載っていないようだった。 それは『性差別』という言葉も載っていないということで、一概に悪いこととは言えない。 氷河は あくまで“変な男”であって、“悪い男”ではないのだ。 瞬は、男子のくせに常軌を逸した美少女だったが、そういった方面の考え方は 至って普通で平凡な人間らしかった。 「僕は男子なんですが……」 「俺は構わない。こんな綺麗な目、初めて見た。いや、母しか知らなかった」 「おい、氷河! このマザコン! なに言ってんだよ!」 今日 理事長室で絶世の美少女に一目惚れしたのは、一輝ではなく 氷河の方だったのだ。 その重大事に気付かずにいた自身の迂闊に、星矢は臍を噛んだ。 「ぜひ末永く」 「氷河、少し冷静になれ。それを、あの一輝が許すと思」 「それを、この俺が許すと思うのかーっ !! 」 紫龍の制止は、遅きに失した。 いつから そこにいて どこから話を聞いていたのだと尋ねることも許さない、圧倒的な迫力、圧倒的に攻撃的、圧倒的な憎悪と 圧倒的な怒りと 圧倒的な容赦のなさで、キックボクシング部に飛び込んできた一輝が、氷河に飛び掛かっていく。 引き止める隙、押し留める隙もあらばこそ。 たとえ そんな隙があったとしても、星矢も紫龍にも そんな無謀をする勇気は持てなかったろうが。 ここで問題なのは、氷河が“変な男”だということ。 おそらく 地上で最も変な男が、しかも つい数時間前までマーマ一筋だったマザコン男が、どう考えても生まれて初めての恋に落ち、正気を失っているのだ。 普通の人間なら怖気づいて、腰が引けて、即座に逃げを決め込むだろう憤怒の一輝を、氷河は全く恐がらなかったのである。 最愛の弟を愚弄され(たと思って)閻魔大王も裸足で逃げ出すほどの迫力で怒髪天を衝いている一輝と、恋の熱に浮かれて 絶対零度が5700度超になっている氷河。 その二人がぶつかれば どうなるか。 答えはこれだ! |