「ねえ。ナターシャちゃんは 小さな女の子――まだ子供だ。だけど、僕は、ナターシャちゃんに、氷河を心から大好きな一人の人間として―― 大人と同じに、大事なお話をしたいと思う。ナターシャちゃんは、聞く勇気はある? 楽しいだけのお話じゃないよ」
瞬は、その言葉通りのことをするつもりだった。
ナターシャを、“氷河に愛されるだけの子供”として遇せず、“氷河を愛する者”として、自分と対等な一人の人間への対応をするつもりでいた。

瞬の真剣な眼差しと重々しい口調が、ナターシャは むしろ嬉しかったらしい。
幼い子供が 幼い子供らしく 背伸びをして大人振りたいのではなく、日々の生活を生きるのに そうすることが“必要だから”大人として遇してほしい。
ナターシャは そう思っている。
ナターシャの目は真剣だった。

「ウン。ナターシャは、パパのことなら、どんな お話でも聞くんダヨ」
『どうして?』と問えば、『パパが大好きだから』という答えが返ってくるだろう。
ナターシャは正しく、瞬の同志だった。
「うん」
瞬の腕に額をくっつけて座っていたナターシャの身体を抱き上げて、膝の上に横座りさせる。
これはとても大事な秘密の話。
瞬との距離が更に縮まったことで、これから瞬が語る事柄が“よその人”に話してはいけない事柄なのだということを、ナターシャは理解してくれたらしい。
息を詰めるようにして、ナターシャは、瞬の顔を見上げてきた。
もちろん瞬も、ナターシャに負けず劣らず真剣である。

「人が誰かを大好きだと思う気持ちを“愛”って言うんだ。そして、誰かを大好きになることを“愛する”って言う。愛っていうのは、誰かを自分の命より大切だって思う気持ち。自分の幸せより 大切だと思う気持ちだよ」
「アイ……」
「そしてね。氷河は 人を愛する天才なんだ」
「パパが?」
問い返してくるナターシャは、瞬の言葉を疑っているわけではなく、『そんなの、信じられない』と思っているのでもないようだった。
ただ氷河が“誰を、どんなふうに”愛するのか、その場面を 自分の脳裏に思い描けなかっただけで、ナターシャは、『氷河は 人を愛する天才』という瞬の言葉自体は 信じている。

「そうだよ。氷河のマーマ、氷河の先生、本当の兄弟みたいに一緒に聖闘士になるための修行をした人。氷河は愛した。心から。氷河は、彼等を自分の命より大切な人たちだと思っていた。でも、その人たちは みんな、死んでしまったの。氷河が どんなに悲しんだか、ナターシャちゃんなら わかるでしょう? 大好きな人と二度と会えなくなった氷河の気持ちを想像できるでしょう? ナターシャちゃんの目の前で、氷河が死んでしまったようなものだよ」
「……」

その場面を、ナターシャは実際に想像してみたらしかった。
ナターシャの瞳に涙が盛り上がってくる。
ナターシャは想像力と 人の心を思い遣る力を持っている。
それはナターシャが優しい人間たり得るということ。ナターシャが温かい心を持っているということである。
瞬は あえて、『泣かないで』とは言わなかった。
泣いていいのだ。
愛する人の悲しみを思った時、泣けない人の方が悲しい。

「氷河はナターシャちゃんのことが大好きだよ。氷河は、ナターシャちゃんを とても愛している。自分の命より、自分の幸せより、自分の心より、氷河はナターシャちゃんを大切に思っている。氷河は、ナターシャちゃんを世界でいちばん幸せな女の子にしたいと、心から願っているんだ」
「ナターシャは、パパがナターシャと一緒にいてくれたら、とっても嬉しくて、幸せダヨ」
パパがナターシャを愛してくれているのなら、それだけで十分。
笑ってほしいだの、『ん』と『ああ』と『そうか』以外の言葉がほしいだのと、贅沢は言わない。
ただパパがナターシャと一緒にいてくれるなら、それだけで。
いつまでも一緒にいてくれるなら、それだけで。
だから、パパ、死なないで。

今はまだ生きている氷河の死を想像し、『一緒にいてくれるなら、それだけでいい』と言うことのできるナターシャは、愛する人が死んでから、『もっと愛せばよかった』と後悔することはないだろう。
彼女は、彼女と彼女のパパが生きているうちに精一杯、パパを愛するのだ。

「そうだね。ナターシャちゃんの気持ちもわかるよ。でも、何よりも誰よりも ナターシャちゃんの幸せを願っている氷河はね、ナターシャちゃんの幸せの いちばん重要な条件は、まずナターシャちゃんが生きていることだと思っているんだ」
「ナターシャが生きているコト……?」
その考えには、ナターシャも特に異存はないようだった。
ナターシャは、瞬の腕の中で こっくりと頷いた。
「ウン。ソーダネ。死んじゃったら、パパと一緒にいられないもん。生きてることは大事だヨネ」

そう。
生きていることは大事である。
だが、多くの人は その大事なことを忘れがちで、死を間近に感じる出来事が起こらない限り、その大事なことを思い出しもしないのだ。
氷河が常に意識している、その大切な事実を。

「氷河が愛した人は、みんな死んでしまった。運命の神様が、氷河から 氷河の愛する人たちを奪ってしまったんだ。だから、氷河は少し怖がっているんだよ。ナターシャちゃんを大好きな気持ちを言葉や笑顔にして、誰にでも わかりやすく自分の心の外に出してしまうと、そのことに気付いた運命の神様が、氷河のマーマや先生たちみたいに、ナターシャちゃんを氷河から取り上げて死なせてしまうんじゃないかって」
「ナターシャ、死にたくない。ナターシャは、ずっとパパと一緒にいたい」
「うん。氷河も そう思ってるよ。だから、ナターシャちゃんを大好きだけど、誰より深く愛してるけど、その気持ちを意地悪な神様に気付かれないよう、隠しているんだ。ナターシャちゃんを愛してるから、ナターシャちゃんに幸せになってほしいからだよ」
「ん……」

それでナターシャは納得してくれると思ったのだが――実際、彼女は それで納得しかけているようだったのだが――彼女を完全に納得させなかったのは、氷河の普段の言動だった。
「ナターシャは……ナターシャは、パパが 世界でいちばん大好きなのは瞬ちゃんだと思う。でも、パパは 瞬ちゃんを大好きな気持ちを隠したりしないヨ。瞬ちゃんが来ると、嬉しそうにするし、お話もいっぱいするし、抱っこしたり、キスしたり」

ナターシャは、本当に、氷河の振舞いを よく見ている。
しかし、それは不思議なことでも何でもない。
ナターシャは、パパが大好きなのだ。
好きな人を見ていたいと思い、気付くと視線が その人の方に向かっているのは、ナターシャでなくても ごく自然なことである。
ともあれ、夜 この家に来て、氷河と一緒に眠っていることにだけは ナターシャに気付かれないようにしなければならないと、瞬は自身を戒めた。

「僕は強いからね。何があっても死なないって わかってるから、氷河は、僕のことは隠さなくても平気だと思ってるんだよ。けど、ナターシャちゃんはまだ小さくて傷付きやすい女の子だから……」
「ナターシャは平気だもん! ナターシャだって強いもん! パパに大好きって言ってもらえて、パパがナターシャに笑ってくれるなら、ナターシャ死んでもいいもん!」
つい さっき、『死にたくない』と言ったばかりなのに、氷河の笑顔のためなら 『死んでもいい』と言う。
きっぱり、言う。
ナターシャは それほどまでに――氷河に愛されている確証、氷河に愛されている実感を得たいのだろう。
ナターシャは我儘なのではない。
ナターシャは、正直なだけなのだ。






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