瞬は ナターシャの肩と うなじを抱き支えていた手で、彼女の頭を撫でた。
「ナターシャちゃんは いい子だね。氷河が大好きなんだね。でも、ナターシャちゃんが死んじゃったら、氷河が悲しむから、それはだめ」
「けど、ナターシャは――」
正直なナターシャは食い下がる。
瞬は、だが、ナターシャの正直に屈しなかった。
氷河の身近には、強く優しい人間だけがいてほしいから。

「氷河は恐がりなんだよ。だから、氷河が びっくりして逃げていってしまわないように、ゆっくり少しずつ、近付いていこう。そうして、時間をかけて、ナターシャちゃんが氷河を大好きなこと、氷河の笑顔を見たいと思っていること、ナターシャちゃんが強いことを、氷河にわかってもらおう」
「ゆっくり、時間をかけて?」
「そうだよ。僕も長い時間をかけたよ。氷河の笑顔を見るために」
「どれくらい?」
「どれくらいって……うーん。10年くらいかなぁ……」
「10年ーっ !? 」

その半分くらいしか生きていないナターシャには、10年という時間は 長すぎて 想像を絶するものだったのだろう。
彼女は絶望的な悲鳴を上げた。
過ぎてしまえば短い時間。
だが、これから過ごすには長い時間。
時間とは そういうものである。

「ナターシャちゃんなら、もっと ずっと短くて済むよ」
「ほんと?」
「ほんと。僕が コツを教えてあげるから」
「瞬ちゃん、ありがとう! 大好き!」
絶望の姿を見た直後だっただけに、よほど嬉しかったのだろう。
ナターシャは歓喜して、勢いよく、瞬の首に両手で しがみついてきた。
この調子で、大胆かつ積極的に好意を示されたなら、人に恐れられることに慣れている氷河は面食らわずにはいられないだろう。
氷河の戸惑いを想像して――幸せな戸惑いを想像して、瞬の口許は 自然に ほころんだ。

「ありがとう。僕もナターシャちゃんが大好きだよ」
瞬の言う『ありがとう』の意味を、ナターシャは正しく理解したかどうか。
だが、そんなことは わからなくていいのだ。
『ありがとう』は、感謝の気持ちを理解してほしいから告げる言葉ではない。
それは、感謝している気持ちを伝えずにはいられないから、こちらが勝手に告げるだけの言葉なのだ。
もちろん 瞬は、自分の感謝の気持ちを、すぐに行動としても ナターシャに手渡した。
それは、氷河を笑顔にするコツというより、氷河の不器用に慣れるためのコツだったかもしれない。

「大事なのは 急がないことだよ。急ぎ過ぎると、氷河はびっくりして逃げちゃうから。氷河は いつか必ず ナターシャちゃんを大好きな気持ちを隠さなくても大丈夫だと思うようになる。だから、焦らずに――たとえば、氷河に抱っこしてもらったり、氷河が椅子に座っている時は お膝に乗ったりして、氷河の目を見るの。じっと見てるとね、きっとナターシャちゃんには わかるよ。氷河の目が、ナターシャちゃんを 誰より大切な人を見る目で見詰めていることが」
「パパの目は青いよ。青くて綺麗ナノ」
「そうだね。その綺麗な青い目の奥を見るんだ。そこには 色々なものがある。寂しい気持ちや悲しい気持ち。そして、だから愛もある。最初は、氷河の目は綺麗だって思ってるだけでいいんだ。そのうちに、どうして氷河の目が綺麗なのかが、ナターシャちゃんにも わかってくるから」

懐かしい幼い頃の気持ちが蘇ってくる。
あの頃、瞬がそうしたように、幼く不器用な氷河も、瞬の瞳を無言で見詰めていた。
それを、睨まれているのだと誤解して 泣いたこともあった。
あの頃は 悲しくてならなかったことが、今はただ 優しく温かい気持ちだけを呼び起こす思い出になっている――。

「氷河は、『大好き』とか『愛してる』とか、滅多に言葉にしない。恐がり屋さんで 照れ屋さんだから。でも、氷河がナターシャちゃんを大好きでいることは、言葉以外のところで確かめられるんだ。ナターシャちゃんを見詰める氷河の目、お出掛けの時に ナターシャちゃんの手を握りしめる氷河の手、ナターシャちゃんが転びそうになった時、差し出される氷河の腕。温かさや力強さ、溜め息――。言葉以外の氷河の全部が、ナターシャちゃんを大好きだって言っている。口許、目許。よく見て、触れて、聞いていると、きっと わかるよ」
「ウン」

氷河は、人に理解されることを望んではいないから、言葉は少ない。
氷河が望んでいるのは、愛すること。
そして、もし叶うのなら、愛されること。
だから、言葉はいらないのだ。

「そのうち、ナターシャちゃんを大好きなことを隠している必要がないとわかってくれば、氷河は 毎日 笑顔を見せてくれるようになるし、言葉でも大好きって言ってくれるようになるよ」
「ほんと?」
「ほんと。だって、氷河は、不器用だから 嘘をつけない。好きという気持ちに嘘をつけない。そして、氷河は 本当にナターシャちゃんのことを大好きなんだもの。ナターシャちゃんの喜ぶことをしたくて、うずうずしてるんだもの」

瞬に確約を与えられて、ナターシャの顔は ぱっと明るく輝いた。
ナターシャに必要なもの――ナターシャに限らず、誰もが必要とするもの――は、それだった。
希望。
すべての人間に共通に必要なものは、生きるための希望だけと言っていい。
その希望を瞬から手渡されて、ナターシャは明るく元気な生気を取り戻したようだった。






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