「私にはマリエッタという名の娘が一人いました。私の娘マリエッタは、2年前に行方不明になり、いまだに生死すら不明です。マリエッタを知る知人が、ナターシャちゃんのインタビューをテレビで観て、私に知らせてくれたのです。マリエッタに生き写しの少女を見た――と。実際に、その映像を観ると、あなた方のナターシャちゃんは 私のマリエッタにそっくりだった」
言いながら、彼はテーブルの上に置いてあったタブレットに、小さな少女の写真を映し出した。

桜色のミディドレスと赤い靴。
雪柳の咲き乱れる春の庭で、熊の縫いぐるみを抱きかかえている、4、5歳ほどの長い髪の少女。
少女は、公使と、彼の妻とおぼしき金髪の若い女性と共に映っている。
少女の顔立ちは 金髪の女性のそれに似ていて、二人が母子であることは確かめるまでもなかった。
少女の灰色の瞳の色は、父親から譲り受けたものなのだろう。
それは、“幸せな家族の肖像”としか言いようのないものだった。

そんな親子の写真を示されて、氷河と瞬は青ざめたのである。
顔の造作も 髪の色も瞳の色も――氷河と瞬は、何一つナターシャと同じ物を持っていなかったから。
つまり、そういうことなのだ。


彼の名は、ジョルジュ・ブロン。
2年前に、9歳年下のアネモネ夫人と 4歳の娘マリエッタを伴って、在日フランス大使館に、特命全権公使として赴任した。
来日して2ヶ月が経った頃、アネモネ夫人は娘と共に、日本橋にある某百貨店内の輸入食材販売店に菓子用食材を買いに出掛けた。
アネモネ夫人は 日本語がほとんど話せなかったのだが、その輸入食材店は、フランス語を話せる店員がいるため、フランス大使館職員の家族には人気の店だったらしい。

そこで、マリエッタが迷子になった。
もちろん、マリエッタも日本語はわからない。
アネモネ夫人は 慌てて娘を探し回り、フランス語と日本語で館内放送もしてもらったのだが、マリエッタは見付からなかった。
平日の昼下がりの百貨店内は、さほど混雑もしていなかったのに。
1日中 探し回り、百貨店の閉店後には、大使館からも人を出して 百貨店の店員と共に消えた少女を探しまわったのだが見付からず、翌朝になってもマリエッタは両親の許に戻らなかった。
その段になって、マリエッタの両親は、娘が何者かに誘拐された可能性を考えるようになったのである。

マリエッタの行方不明の事実を公にしないと決めたのは、父であるブロン氏だったらしい。
フランス共和国の特命全権公使という重い立場にあるせいで、彼は かえって、娘の失踪を 大きな騒ぎにできなかったのだ。
誘拐犯から身代金要求の連絡でもあれば、警察に動いてもらうこともできたのかもしれない。
しかし、誘拐犯からの接触は一切なかった。
ただの失踪かもしれないことで、外交問題に発展する可能性のある行動を起こすわけにはいかない。
そう考えて、彼は、日本の警察には行方不明者届を出すだけで済ませたらしい。
他のルートを使って、個人的に探しはしたが、異国の地で、ついに彼のマリエッタは見付からなかった。

「妻は、マリエッタの行方がわからなくなったのは 自分のせいだと自分を責めて責めて――必ず帰ってくると信じて、待ち続け、やがて希望を失い、弱り切って、昨年 亡くなりました」
妻の死を語るブロン氏の表情は、ほとんど乱れを見せず、事務的ですらあった。
改めて涙を流すこともできないほど――彼は悲しみ尽くしたあとなのだろう。
「妻のせいであるはずがない。すべては、故国から遠く離れた異国の地に、言葉もわからない妻子を伴ってやってきた私のせいだ。家族が離れて暮らすことなど考えもしなかった私は、共に来てくれるかと、彼女に尋ねることさえしなかった」
彼は悔やんでいる。深く悔やんでいる。
それはそうだろう。
娘は自分のせいで行方不明になり、妻を死なせたのは自分だと、彼は考えているのだ。

「私は もう遠慮しない。罪無き身で、悲しみと後悔の中で死んでいった妻のためにも、私は どんな手を使っても、必ず娘を取り戻す。そう考えて、今回は あなた方に脅しのようなことをした。外交問題など――我が国と日本国が どれほど険悪になっても、戦争になりさえしなければ いいのだ!」
彼にも一国の公使に任じられるような人物が、本気で そんなことを思っているとは考えにくい。
だが、彼が それほどの覚悟で この場に臨んでいる――臨んでいた――ことも、紛う方なき事実なのだろう。
にもかかわらず、今、彼は迷いの中にいるようだった。

「私のマリエッタなのか そうでないのか、会えば一目で一瞬で わかると思っていたのに……」
わかると思っていたのに、わからなかった。
それが彼の迷いの原因であるらしい。
「顔はマリエッタと生き写しです。似ているのではない、全く同じだ。2年前、4歳だったマリエッタに。だが、そんなことがあるはずがない。4歳の子供は 2年の時を経たら、6歳になる。子供は成長するものだ。だというのに――」

皮肉なことに、彼が2年前に見ていた娘と全く同じだから、彼はナターシャを自分の娘だと思うことができずにいるのだ。
そして、
「あの子も、私のことを憶えているようではなかった……」
実の父娘が直接 会えば 響き合うものがあるはずだと期待していた共鳴がなかったことが、彼に失望を運んできたらしかった。
「あの子が もっと小さかったら――赤ん坊だったなら、あの子は マリエッタのクローンなのではないかと考えることもできていただろう、それほど似ている。それほど同じなのに……!」

悲しみ尽くして、もはや涙も出ない。
彼は 自分では迷いの森を抜け出す術を見付けられず、氷河と瞬に 道を示してほしいと思っているようだった。
ナターシャはマリエッタではないという、確たる証拠。
あるいは、ナターシャがマリエッタであり得る可能性。
そのどちらかを、彼は氷河と瞬に示してほしいのだ。
そして、ナターシャのことを忘れるべきか、忘れてはならないのかを判断し決定する材料を提示してほしいのである。

娘を失った悲しみで 心を凍てつかせている父親の前で、氷河は顔を強張らせていた。
氷河は、この不幸な父親に、嘘をついてナターシャを諦めさせることはできない。
巧みな嘘が すべての人を幸福にするとわかっていても、氷河は彼に嘘はつけない。
だが、ブロン氏がナターシャの本当の父親なのだとしても、彼の許にナターシャを返すことはできないのだ。
ナターシャは――彼のマリエッタは―― 一度死んでいる。
ナターシャの命と身体は、普通に生きている人間のそれではないのだ。
一般の人間として、一般人だけでできている社会の中で生きて行けるかどうかすらわからない。
ナターシャのために――ナターシャの生を守るために、それはできないことだった。

嘘はつけない。
しかし、真実を語ることもできない。
無言を貫くしかできない氷河に代わって、
瞬は、嘘ではないが、完全に真実でもないことを語るしかなかった。
「ナターシャちゃん―― ナターシャは、グラード財団が資金提供している養護施設から引き取り、養子縁組をした娘です。あなたのマリエッタちゃんと そっくりだと、僕も思います。けれど、ナターシャを6歳の少女というのは、さすがに無理があるように思うのです……」

瞬は泣きそうだった。
泣いてしまいそうだった。
嘘はついていないが、罪悪感を抱かずにはいられない。
自分は――自分たちは、心から娘を愛している不幸な父親を苦しめ、一層 不幸にしようとしているのだという罪悪感が、瞬の胸を傷付け続ける。
決して そんなことをしたいわけではないのに。

「あなたの おっしゃる通りです。どうして あなたが泣くんです」
“泣きそう”なのではなく、瞬は実際に泣いてしまっていたらしい。
ブロン氏は、もちろん まだ ナターシャはマリエッタではないと思い切ってしまうことができずにいるようだった。
それでも 彼が瞬たちに無理難題を言ってこなかったのは、瞬の涙に免じてのことだったのかもしれない。
妻と娘と――愛する者を二人も失った不幸で寂しい夫であり父親であった男の境遇を 悲しみ涙する瞬に、少なくとも 人の不幸を望む心はないことを認めてくれたからだったのかもしれない。


甘さを全く控えていない濃厚なフランス風のケーキは、ナターシャの口に合ったらしい。
その上、お土産に 色とりどりのマカロンをもらって、ナターシャは すっかり ご機嫌だった。
「パパ、マーマ。ナターシャ、また、ここに遊びに来たいナ。それで、今度は、パパとマーマと一緒にケーキ食べタイ!」
大使館を辞する際、満面の笑顔で そう言って、ナターシャは、ブロン氏の灰色の瞳を 一層 切ない色に染めていた。






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